アフタードールズ
10.世の中そう甘くない
「胡蝶」
キャラメル色の髪をポニーテールにした、王子様のような男。焦げ茶色のベストの胸に片腕を当て、絵画のように微笑んでみせる。
「そのワンピース、とても似合っていますね。マリアが用意したものですか?」
「これは、ここの店主さんが……」
視線を背後に向ける。
「ああ、そうでしたか。……ご迷惑をお掛けしてすみません」
小さく頭を下げたクリスに、紬は軽いパニックを起こしていた。
「え、いや。そんな、頭を下げられるほどじゃ」
「落ち着け」
嗜めるような低い声が、奥から姿を表す。
「あはは……ごめん」
クリスはしばし愉快だ、といった様子で二人のやり取りを見守っていたが、次に胡蝶と視線がかちあう頃には、急に改まった様子で胸に手を当て、あからさまに眉を下げてみせる。
「……マリアから聞きましたよ」
「マリアに……?」
「ええ」
クリスが土間から手を差し出す。開け放たれた引き戸の隙間から差し込む夕日が、クリスの影を濃赤に染めた。どうすべきか躊躇っていると、背後から紬が、胡蝶の背を押した。よろけるような形になり、しぶしぶ前に出るしかなくなった胡蝶は、恐る恐る乱雑に転がった布の合間を抜け、土間へと近付いていった。
胡蝶の身長は、決して大きくはない。むしろ、同年代の少女の中ではかなり小柄な方だった。土間よりも床がかさ上げされている畳の上に立って初めて、クリスを見下げる形となる。
もう少しで手が届くというところになっても、クリスは何もしてこなかった。マリアに注意されたのが応えたのだろうか。あくまでも、彼は胡蝶に忠実な「人形」だった。
「……すみません。私が、席を外したばかりに」
クリスが謝ることではない。彼にも彼の用事があった。それに、マリアとの外出はとても楽しいものだった。
胡蝶はクリスの腕を取り、ゆっくりと首を横に振った。顔には自然と笑みが浮かぶ。
「……ありがとう」
きょとん、と美丈夫が間抜けな顔を晒す。それが妙に滑稽で、胡蝶は顔に浮かんだ笑みを強めた。
「私を、心配してくれて」
「当たり前ではないですか!!」
急に、クリスが胡蝶の腕を引く。バランスを崩し畳から落ちそうになった胡蝶を、クリスの腕が受け止める。畳の上に爪先立ちの形となった胡蝶を、強くクリスが抱きとめていた。
「お怪我は……?」
耳のすぐ近くにある口ぶりが、慎重に言葉を紡いでいく。
「……大丈夫」
大げさなまでに、クリスが息を吐き出す。最初に抱きしめられた時にも思ったのだが、クリスの体からは、懐かしい匂いがする。嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂い。胡蝶の、人形の匂い。
だが、男の体は自ら熱を放っている。おかしな話だ。焦げても千切れても、新しい布を継ぎ接ぎしていく限り、数日後には完全に再生する。それなのに、クリスの放つ温もりは確かに本物だった。人間と何ら変りない。中身はただの綿だというのに、血のぬくもりを感じる。
「あなたが一人になったと知った時は、生きた心地がしなかった」
大袈裟だと思う一方で、それも無理はないのかもしれないな、と胡蝶は妙に納得していた。まだ一日しか経っていないが、少しだけ、胡蝶は人形達の気持ちが理解できた気がした。
人間によって、人間に愛されるために作り出された愛玩道具。
彼らは主人を求めている。自分だけのご主人様を。自分だけを愛してくれる、かけがえのない持ち主を。主人に仕えることこそが、「人形」の存在理由。持ち主の想いに応えることで、やっと存在する意味を持てる。
「……本当に、無事でよかった」
クリスの腕の力が一層強まる。
まだあの化け物が何なのかは分からない。それでも、クリス達は、少なくともクリスは、胡蝶を必要としてくれている。替えのきかない、たった一人のご主人様として。
クリスがゆっくりと体を離す。
「……お見苦しいところをお見せして、すみませんでした」
クリスの目には微かに涙が滲んでいた。首を横に振る。
純粋に、嬉しかった。人形だってなんだって、他でもない胡蝶を心配してくれる、必要としてくれている人がいることに。時にその愛を怖いと感じもするが、狐の人形は間違いなく胡蝶を求めてくれていた。
「私は平気。……私なんかより、コジローの方が」
それまで王子様の仮面をかぶっていた男の眉間に、あからさまな皺が刻まれる。
「コジローが、ここにいるんですか」
一言一句を噛みしめるようだった。
「……彼がいなかったら、私は死んでたと思う」
慎重に言葉を選ぶ。コジローの名を出した途端、あからさまにクリスの機嫌が悪くなった。あくまで笑みを保とうとはしているようだったが、目が完全に座っている。
「クリス、一つ質問してもいい?」
「ええ。私に答えられることでしたら、何なりと」
「……「キャバリアー」って、何?」
どうやら、質問を間違えたらしい。クリスの目つきが明らかに変わった。それまで胡蝶には決して向けることのなかった、明確な侮蔑が滲む。嘲笑を浮かべた男は、その単語を鼻で笑って見せた。
「ただの汚れ仕事ですよ。あんなもの、犬畜生のやることだ」
「聞き捨てならんな、化け狐」
ドスの利いた声に振り返る。暖簾の向こうから、フリルを纏った少女がこちらに大股で向かってきていた。ドスドスと、そんな音すら聞こえてきそうだ。そのままクリスに殴りかからん勢いで袖を捲り上げた人形を、彼女の持ち主は必死に押しとどめていた。
「ちょっとロップ、お客様になんてこと――」
「しかし……っ!」
紬が腕を掴んだ瞬間、ほんの少しの冷静さを取り戻してか立ち止まったが、額には青筋が浮かんでいる。
「コジローとはこれ以上関わらない方がいい。胡蝶が不幸になるだけです」
いくらなんでも言い過ぎだと思った。
「あんな男と一緒にいれば、あなたまで汚れてしまう」
少なくとも、コジローがいなければ、あの時胡蝶は死んでいた。それに、人間世界で十年以上の時を共に過ごしてきた人形(なかま)に対して、いくらなんでも言い過ぎだと感じた。
「……仲間、なんじゃないの」
クリスの瞳が小さく見開かれる。
「これまで短くない期間を一緒に過ごしてきた仲間に対して、その言い方はないんじゃないの」
「仲間!? とんでもない!」
あからさまな、嘲笑。
「あんな人形(おとこ)と一緒にしないで頂きたい。あんな死に損ないのボロがどこで死のうが、私の知ったことじゃありません。さぁ、こんなところに長居する必要はない。……帰りましょう。私たちの家に。マリアも心配していますよ」
知らず、握りしめた拳に力が入っていた。
急速に熱が引いていく。
今ので確信した。この男とは、到底気が合いそうにない。共に過ごしてきた家族に対しての言い草、コジローだけでなく、ロップと紬をも侮辱する発言。
胡蝶以外の全てを、あまりにも軽視しすぎている。それが、この男から感じる違和感の正体だった。胡蝶以外には、興味がない。端的な言い方だが、そこら辺に転がる虫の死骸くらいにしか捉えていない。最初はなんとなくしか理解できなかった、マリアがクリスを恐れている理由。それがよく、わかった。
一歩足を踏み出す。それだけで、満面の笑みを浮かべるクリスはなんと単純なのだろうか。
背後でロップのわめき声が聞こえる。だが、何を言っているのかは分からない。
胡蝶の意識の全ては、眼前にある狐の人形に向けられている。
握りしめた腕に力を込め、ゆっくりと持ち上げていく。その腕はクリスの腕に重なることなく通り過ぎ、勢い良く振り下ろされる。
瞬間、小気味の良い音を立て、クリスの頰が真っ赤に染まった。呼吸を荒げる胡蝶自身も、平手打ちを受けたクリスも、背後で見ていた紬とロップも、一瞬何が起きたのか把握できていなかった。
打たれた頰をそっと撫で、クリスは絶句している。ロップも紬も、その場に固まり動くことが出来ずにいる。最初に静寂を破ったのは、他でもない胡蝶自身だった。
「あなたの元には、帰らない」
誰かをぶつなんて、初めての経験だった。喉から出たのは、自分でも驚くほどに低い声。誰かを殴るというのはこんなにも痛いものだったとは、知らなかった。手のひらがジンジンと滲みるように痛んでいる。
「帰って」
尻込みしそうになる気持ちを必死に抑え、勢いだけで言い切ってしまう。感情が高ぶり、頭がおかしくなっていた。
対するクリスの反応は落ち着いたものだ。静かすぎて、それこそ気味が悪い。
「……そう、ですか」
人形があまり痛みを感じない、というのは本当なのだろう。ついさっき殴られたばかりだというのに、クリスの顔には傷一つない。いたって小綺麗な顔がそこに鎮座していた。危害を加えた胡蝶の手のひらの方が、よっぽど赤い。
「そうですか」
自分を無理やり納得させるような、二度目の独り言。
もう痛みは引いているだろうに、クリスは左頬から指を離さなかった。何度も撫でさすり、考え込むようにしてブツブツと怨念のような呟きを漏らす。
「分かりました」
ようやく己の頬から手を離した男は、最初に胡蝶に見せたのと同じ顔で笑って見せた。小綺麗に、怪我の痕跡など一切見せずに、和やかに笑む。
「今日のところは、大人しく帰ることにします」
最後に不敵な笑みを三人に向け、クリスは胡蝶に背を向けた。
「胡蝶」
背中越しに胡蝶へ語りかける。
「家出は、程々になさってくださいね」
背筋を這うような声に、ゾッとした。
まだ、クリスは胡蝶を諦めた訳ではない。あんなにも可愛らしい人形の姿をしていながら、こんなにも恐ろしい男だとは微塵も思いはしなかった。
クリスの姿が見えなくなってしばらくしても、胡蝶はその場から動くことができなかった。それどころか腰を抜かし、その場に座り込んでしまった。
胡蝶が床に尻をついたのを合図に、背後に控えていた二人の時が動き出す。一番最初に胡蝶に近付いてきたのは、ロップの方だった。
「お前、大人しそうな顔のくせに結構大胆なことをするんだな」
顎の下に手をあてがい、ロップはおもむろに唸って見せる。
「……にしても、お前「複数持ち」だったのか」
「複数持ち?」
それまで黙っていた紬がポヤポヤした笑みを浮かべる。
「複数持ちって結構珍しいのよ。一人の人間につき一人の人形、っていうのが普通だから。そうねぇ、わかりやすく言えば、ハーレムの王的な?」
「そういう語弊のある言い方はやめろ! 」
「いったぁーい」
ロップが軽く紬の頭を叩く。相変わらず、全く応えた様子はない。
「――でも、一時はどうなる事かと思っちゃったわぁ」
全く緊迫感のない話し方に、こちらの気も思わず緩んでしまう。言いながら、紬は開け放たれたままの店の入り口の戸を閉めに向かう。まだ外はうっすらと明るいが、ガチャンと錠を下ろしてしまう。ついで、引き戸の裏に取り付けられたグレーのシャッターを下ろせば、完全に夕日の赤は遮られてしまった。
「ごめんなさい。……私のせいで、迷惑ばかりかけてしまって」
「気にするな。お前なんて、あいつに比べればまだマシな部類だ」
皮肉げな顔をしたロップが、親指で階上を指差す。人形主人揃って迷惑をかけるなど、情けないやら申し訳ないやら。
「でも、お店……いつもより早く閉めることになっちゃったんじゃ」
外はまだ明るい。夜というほど暗くはなく、人間の世界でいう「薄暮」が最も適切な表現な気がした。対する二人はきょとん、と意外そうな顔をする。
「別に、早くはないだろう。むしろ、いつもより遅いくらいだぞ」
「そうねぇ……。コジローくんの家はシャッターが閉まったままだろうから問題ないとして……あ、居間のシャッターは閉めた?」
「確認してくる」
「お願いね」
言って、ロップはそそくさと奥へと引き返していってしまう。
「立てる?」
「……ありがとうございます」
手を差し伸べてくれた紬の手を恐る恐る取り、胡蝶はゆっくりと立ち上がった。
何かが、おかしい。あまりに用心深すぎる。脳裏をよぎるのは、路地の裏で見た小熊の皮を被った化け物。口から、目から、至る所から炎を迸らせていた怪物。
それと同時に、思い出したのはかつてテレビで見た、とある映画だった。夜の闇を徘徊する怪物たち。化け物たちは音に反応するため、生き残った数すくない人間たちは化け物から逃れるため家中のシャッターを閉め、音を立てないようにして恐怖に戦きながら眠りにつく。見つかれば、化け物の仲間入りをしてしまうから。食われるでもなく、死ぬでもなく、怪物になり果ててしまうから。
「あの、紬さん」
シャッターがきちんと閉まっているか、念入りに確認している紬に声をかける。振り返った紬は、何でもない顔をしていた。いつも通りの笑顔を浮かべた、黒髪の美少女。彼女は確かに人間ではあったが、胡蝶と同じではなかった。
「……一体何が、来るんですか」
分かっていながらも、聞かずにはいられない。予測はもう出来ている。
「ああ、そっか。胡蝶ちゃんは何も知らないんだったわねぇ」
紬がどこか悲しげに、眉を下げる。
もうすぐ、夜がやってくる。
二つの赤い月に世界が包まれる、亡霊たちの宴の時間が。
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