アフタードールズ
15.サンドリヨン
コンサートまでの数日間、胡蝶は古谷裁縫店を手伝いながら、細々とした生活を送っていた。時折紬に裁縫の仕方を習いながら、店番を手伝う。役に立っているのかは正直怪しいが、文句を言われないということは邪魔にはなっていないのだろう。
店の傍で、紬から課題として出された巾着袋に糸を通しながら、胡蝶はちらりと頭上を見上げた。
マリア達が訪れた翌日には、コジローの腕と足は完全に元通りの機能を取り戻していた。あれから三日が経った現在、コジローはロップの注告を完全に無視し、再びキャバリアーとしての仕事を再開させていた。
暗闇を好む亡霊(ゴースト)は、夜に活動することが主だ。よって、コジローの活動時間も昼夜逆転状態となってしまっているのが常だ。
今朝早く帰ってきては、寝ぼけ眼で朝食を食べたその足で、階上へと直行するコジローの姿は記憶に新しい。
今もあの汚い書類の海に包まれながら、ぐっすりと眠っているのだろう。もしも引火したら大変なことになってしまうだろうなと思いながらも、勝手に触れば怒られてしまうから、何もできないのが実情。もっとも、そんな間抜けなことをコジローがするとも思えないのだが。
そんな胡蝶の思考など全く勘付いていないのだろう夜行生物が、上階からおもむろに降りてきたのは、その日の昼、丁度太陽がもっとも高い位置に上がった頃だった。
しばらくぶりに見るサングラスを掛けたコジローの顔。スーツのポケットに両手を突っ込みながら、ひょこり扉の隙間から胡蝶の顔を覗き見る。
「少し、出かけてくる」
店の玄関から投げやりに告げた、くたびれたスーツをまとったくわえ煙草の男は、胡蝶達が何か言う前に、そそくさと姿を消していた。何を言うでもなく開いた口が、開け放たれたまましばし時を止める。
「胡蝶」
声を上げたのは、店先でリスの人形の耳を治してやっていたロップだった。
「綿が切れそうなんだ。「サンドリヨン」という店なんだが……。まぁ、聞けばすぐに分かる。……とにかく。古谷の使いだと言えば分けてもらえるから、少し出てきてくれ」
見れば、まだ裁縫箱の中には綿が余っているように見える。少なくとも、今日中に切れることはないだろう。
目線は患者に向けたまま落とされた優しさに、胡蝶は元気良く頷いた。
「紬さん」
「ええ、いいわよ。行ってらっしゃい。ここに篭ってばかりでも気が滅入ってしまうだろうし。……それに、自分の人形の事が気になるのは当然だものね」
指先で頰を少し掻く。本当に、自分の人形だから気になっているのかは分からない。ただ、また彼が怪我をしてしまいそうで恐ろしかった。知らぬ間に出て行ってしまったのなら止めようがないが、目の前で出かけて行ったのなら尚更気にかかる。もしも、今見送ったのが最後になってしまったなら。
別れは唐突に訪れることを、胡蝶は身を以って知っている。いつも通りの笑顔を浮かべたまま、出て行ったのが最後。それから、煙草の匂いが家に帰ってくることはなかった。家族三人で観覧車に乗ることは、二度とない。
深く、胸の奥の傷が浮かんだ。
「ついでに街を見てくるのもいいかもね。コジローくんをとっ捕まえて、思う存分ご主人様特権で振り回してあげなさい。彼、恩なら腐るほど売ってる筈だもの。みんなサービスしてくれるわよ」
ポヤポヤした顔で、相変わらずとんでもない事を言う人だった。
「……ありがとうございます」
二人に静かに礼をし、胡蝶は履き慣れたローファーを履く。纏うのは、あの日マリアが持ってきてくれた学校の制服だ。黒いソックスからギリギリ見えてしまっているが、膝の痣はほとんど目立たなくなっていた。
しばらく走っていると、コジローの背を見つけた。カラフルな衣服を身に纏う人形たちの中、漆黒の人形は酷く浮いており、良くも悪くも目立っていた。後ろから駆け足で近寄り、背を軽く叩く。
「コジロー」
一瞬男は体を震わせたが、黒いツインテールを瞳に移すと、ほっと息を吐き出した。苦い顔をしながら煙草をもみ消そうとする男を制止し、二人は並びながら表通りを歩き始めた。
遠巻きに見れば、二人の身長差は親子のそれに見えなくもない。コジローが優に180はありそうな巨体をしているのもあるが、胡蝶の身長も140センチ代後半と、高校生にしては酷く小柄だ。おまけに結い上げられたツインテールが子供らしさを増幅させている。やめた方がいいのだろうと自覚はしているのだが、未だ胡蝶は解き放つことが出来ずにいた。
シガレットの香りが鼻を突く。
変にカップルとして扱われるよりは、兄と妹、もしくは父と娘として扱われた方がやりやすいな、と胡蝶は感じていた。そういう扱いは慣れている。友達と遊んでいても、周囲には「妹さん」として扱われることがほとんど。
視界の端、周り続ける観覧車が写り込んでいた。止まることなく、無人の円盤が回っている。
「……ロップの差し金か」
胡蝶とは反対側に煙を吐き出しながら、コジローは苦々しい笑みを漏らす。
「……ごめん」
「別にいい。それで? ロップは何て」
「「サンドリヨン」で綿を貰ってきてくれ……って」
胡蝶の言葉を最後まで聴いた瞬間、コジローの額に青筋が一本入ったのが見えた。ピキピキと、そんな音すらも聞こえてきそうだ。
「……あいつ、どこに行くか分かってて言いやがったな」
苦々しげなぼやきは、胡蝶の耳に入ることなく街の喧騒へと消えた。
「分かった。まずは、ロップの用を済ませよう」
再び口に煙草を咥え、コジローはゆっくりと歩を進める。焦る必要はない。時間は有限だが、この世界では無限になる。胡蝶に合わせて落とされた歩幅に、自然と笑みがこぼれていた。
奥に進むにつれ増えていく人混みに、胡蝶はコジローを見失いそうになる。また置いていかれてしまう。心臓が鼓動を早める。
忘れられるのも、置いていかれるのも御免だ。もう、怖い思いなんてしたくない。寂しい思いもしたくない。
振り返ったコジローが、引き止めるように胡蝶の腕を掴む。強く握られた腕から伝わってくる、温かな熱。
「――お嬢! 」
焦ったように名を呼びながら、強く引き寄せられる。それだけのことに、酷く気分が高揚していた。
考えてみれば、おかしな話だ。人形が人の姿をし、動き、その上話している。物を食べ、当たり前のように闊歩する。その体は自ら熱を放っているのに、中に詰まっているのは臓物ではなく純白の詰め物。
だが、握った手の感触は確かに人間のそれと同じだった。筋張った指先が、胡蝶の細い指を掴む。
見上げた先の人相の悪い黒髪の男が、胡蝶にはおとぎ話に出てくる本物の騎士に見えていた。
人混みを抜けてすぐ、コジローはすぐに胡蝶の腕を手放した。
「さっきは、すまなかった」
小さく目を見開く。小さく首を横に振れば、気まずい沈黙が二人の間を満たした。
スーツのポケットに両手を突っ込み、胡蝶の顔を見ようとはしない。
吐き出された白い煙が、風に溶けて消えた。
コジローと顔を合わせ辛くなった胡蝶は、おもむろに街の風景に視線を這わせていた。最初は「ヨーロッパをモチーフにしたテーマパーク」という印象を抱かせたが、その実、この世界は様々なモチーフがごちゃまぜになっているようだった。
様々な人形たちの、人間を思う心が生みだした理想郷。数多の人形の達出身地、理想像はそれぞれ異っている筈だ。冷静に考えれば、皆が皆同じことを考えている訳がない。それぞれの理想とする主人の肖像、街の空気感は違っていて当たり前。
マリアと共に訪れた「エリプス通り」は、正統派の遊園地といった雰囲気だったが、今コジローと共に闊歩する道の雰囲気は随分違う。
西洋風の建物群の中に、アメリカの路地裏にでもありそうな怪しげなスポーツショップや、アジアンテイストな小料理屋が混りこんでいる。古谷裁縫店もかなり変わった外見をしているとは思っていたが、この少し近代的なアスファルトの集まりよりはマシにだった。
だが、誰もその違和感を気に止める様子はない。
ちらりと見上げた横顔も、煙草をふかしながら退屈そうに街並みを眺めるだけだ。
「コジロー」
「どうした」
銀色の丸い缶をポケットから取り出しながら、返事を返す。
何かと思えば、缶を開け、その中に短くなった煙草を落とし込んでいる。
どうやら、小洒落た携帯灰皿だったらしい。
「この辺にはよく来るの?」
「まぁ、程々に。俺と同じ家業のやつなら、ここに来ざるを得ないしな」
となると、ここにいる人形のほとんどは騎士(キャバリアー)なのだろうか。
「「サンドリヨン」はこの先を右だ」
少し歩調を早くしたコジローに合わせ、駆け足気味に足を動かす。
連れてこられたのは、至って平凡な雑貨店だった。煉瓦造りの壁に、小洒落た白木のドア。窓から店内を覗き見れば、桃色で塗られた壁が一際胡蝶の目を惹きつけた。棚の上には所狭しと様々なアクセサリーが並べられている。
一見するとどこにでもありそうな店なのだが、コンクリート造りの建物の中では酷く浮いた印象を受けた。
本当にここであっているのか不安になり頭上を見上げれば、確かにカタカナで「サンドリヨン」の6文字が飛び込んでくる。
先陣を切ったのは意外にもコジローの方だった。
「いらっしゃいませー……って、なんだ。旦那じゃないでチュか」
甲高い声が胡蝶の耳を掠める。コジローの背から扉の内側を覗き見れば、通学鞄などによく取り付けられているサイズの、小さな小さな手のひらサイズの人形を発見した。
店内に置かれたテーブルの上にちょこんと座った、水色のネズミの人形。針金で作られた尻尾が、可愛らしい渦巻きの形をしていた。ピコピコと、大きな耳が微細に動く。ネズミが動くたび、頭の上に取り付けられたボールチェーンが左右に揺れていた。
どうも、この世界は人形ならなんでもありらしい。
「まぁた、古谷サンに扱き使われてマチュね? 旦那も苦労人でチュなぁ」
「いいから、いつものを出せ」
「ああもう! 分かったデチュから、銃を出そうとするのはやめるデチュよ……。ツヴァイ、ドライ、いつものお願いできまチュか」
「合点承知!」
リーダー格のネズミの声に応え、どこからともなく二匹のネズミたちが姿を表す。彼らの頭にも、銀色のボールチェーンが付いている。
蟻が食物を運ぶようにして、ネズミたちは店の奥から綿の入った小ぶりな、しかしネズミにすればかなり大きめの袋を胡蝶たちの元に届けると、二匹のうちの一匹が興味深そうに胡蝶をじっと眺めていた。
「もしかして、コジロー殿のご主人様でチュか?」
「うん。そうだよ」
小さな瞳が、幼子のように輝いている。しゃがみ込みテーブルの上にいるネズミ達に視線を合わせた胡蝶に、サングラスの男はどことなく不服気だ。
「……お嬢、そろそろ」
「なんでチュか、なんでチュか、コジロー殿。ハハーン、さては嫉妬でチュね? みっともないでチュよ」
ツヴァイと呼ばれたネズミがわざとらしく男を逆撫でした瞬間、コジローの眉間に皺が寄る。「そうでチュそうでチュ」と囃し立てるネズミ達から、乱雑に綿の入った袋を受け取ると、コジローは足早に店を出て行ってしまった。
急ぎ店を出、男を追う。扉が閉まった瞬間、甲高いベルの音がした。
「……だからこの店は嫌なんだ」
片手で握り締められた綿の袋に、くっきりと皺が寄っていた。
足早に歩いていく男は胡蝶の気配に勘付くと、ゆっくりと歩調を落としていった。
どうも、ロップに使いを頼まれるたび、ああいう風にからかわれているらしい。悪いことをしてしまった。
「……ごめん」
「別に、お嬢が謝ることじゃない」
ポケットから再びタバコを取り出し、咥える。青い炎が胡蝶の瞳の中、ゆらゆらと幻想的に輝いていた。
「――実際、心が狭いのは本当だしな」
「……え?」
「なんでもない」
煙に巻かれ、言葉は天高く舞い上がる。
咄嗟に、なんと反応を返せばいいのか分からなかった。
再び二人の間に静寂が満ちる。
コジローの動きに迷いはない。麻薬の売人のような顔をした男が、片手に綿の入った袋を持っているというのはかなりシュールな絵面ではあった。
数歩後ろから、胡蝶はコジローの背を追いかけていた。
引き離されないところを見ると、拒まれてはいないようだが、決して胡蝶の横に並ぼうとはしない。微かに赤くなった耳元だけが、胡蝶にコジローの想いを伝える唯一の指標。
嗅ぎ慣れた懐かしい匂いに、口元は自然に緩んでいた。
会話はないが、決して息苦しくはない。人形も照れることはあるのかと、新たな発見に、胡蝶の心は街並みとは反対に明るかった。
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