アフタードールズ

18.メヌエット


 メヌエットのト長調。幼稚園の時にピアノ発表会で弾いた曲だ。

 半ページしかない短い曲ではあったが、舞踏会でのピアノ奏者のような気持ちにさせてくれた、大好きな曲。お姫様にはなれなくとも、お城のパーティーを彩る側の世界の住人にはなれるかもしれない。そんな、束の間の夢を見させてくれた。
 発表会には深紅色のワンピースに、揃いの赤い靴を履いていった。

「とっても上手だったわ、胡蝶。これからも頑張ってね」

 帰り道、自慢気に賞状を見せつけた娘に、母親は満面の笑みを浮かべた。カールのかかったボブカットに、品のいい香りのする香水。
 頭を撫で、抱きしめてくれたこの人のためにも、もっともっと上を目指そうと思った。期待を、裏切りたくなかった。
 小学校に上がってからも、胡蝶はピアノを続けていた。
 物心ついた頃から弾き続けていたから、惰性で続けていたというのもある。だが、それ以上に嬉しかったのだ。リビングに置かれたグランドピアノを夢中で弾き続ける娘に、父も母も、いつだって拍手喝采を送ってくれていた。
 これからも、ずっと弾き続けていこう。
 そう思っていたのに、いつしかそれはただの置物と化し、誰も見向きもしなくなった。主人不在の、ただの白い布を被っただけの、博物館の奥へとしまわれた展示品。
 弾きたいと思えなくなった。弾く意味が、分からなくなった。

 結局、胡蝶は小学校を卒業すると同時にピアノ教室をやめた。練習をサボれば、当然指も動かなくなる。今、もう一度メヌエットを弾いてくれと言われても、胡蝶には出来る自信がなかった。
 もう二度と、あの椅子に座ることはない。
 ステージに上ることもない。
 鍵盤に触れることも、もうないのだ。

 * * * * *

 体のあちこちが痛んだ。床の上で一晩を明かした後のような、気だるい感覚。
 ゆっくりと目を開けていく。最初に目に飛び込んできたのは、穴の開いたマットレスだった。慎重に体を起こしていく。縛られた跡もなく、危害を加えられた形跡はない。強いてあげるとするならば、数日前に転んで打った膝小僧だけがほんのりと赤くなっている程度だった。

 マットレスと同じく、どこもかしこもボロボロの部屋だった。黒に限りなく近い色をした床板と壁。木造の廃墟のように見えた。刑事物のドラマでありがちなシュチュエーションだ。これで、手首に手錠でもかけてあれば完璧だったのに、小梅と名乗った彼女は胡蝶自身に危害を加える気は無いようだ。
 ベッドサイドにある窓から差し込んでくる光は柔らかく、空の色はほんのりと茜色に染まりつつある。もうすぐ、夜がやってくる。霧と赤色に包まれた、亡霊たちの時間が。

 生憎、窓の方は胡蝶が通り抜けられるほどには大きくなく、さらに加えれば鍵がかかっている。
 早く戻らなければ、コジローにきっと心配をかけてしまっている。
 なんとかしなければと、ダメ元でボロのドアノブに手をかけてみる。すると、呆気ないまでにあっさりと開いてしまった。罠かもしれないが、今はこうする以外に道がない。とにかくここを出ないことには始まらないのなら、進むしかない。
 
「あら、意外に早かったのね」

 扉の先、片仮面の少女が悠然と微笑んでいた。廃屋には似つかわしくない艶やかな着物に身を包んだ、黒髪の少女。
 先ほど胡蝶がいた部屋が寝室なのだとすれば、ここはダイニングルームかキッチンのようだった。ようだ、と言うのもあるのは簡素なキッチンと、これまた朽ち果て、今にも壊れてしまいそうな黒のダイニングテーブルのセットがあるだけだからだ。

「乱暴にしてごめんなさいね。ケガとかしてない?」

 怒るでもなく、罵しるでもなく、誘拐犯は至って冷静だった。それどころか、自分自身で誘拐した相手を心配したような素振りを見せる。

「そう警戒しなくても、アタシ、危害を加えて喜ぶような趣味はしてないんだから。心配いらないわよ。とりあえず座ったら? 抹茶は飲める?」

 嬉々として簡易的なキッチンで作業を始める少女に、胡蝶の方が呆気にとられる番だった。逆らって機嫌を損ねられるくらいなら、ひとまずは言うとおりにしておこうと、胡蝶は渋々椅子の一つを引き、腰掛けた。

「大丈夫、です」
「そ。なら良かった」

 胡蝶に背を給餌をしている彼女は、至って普通の人間に見えた。だが、赤い炎を手のひらや右目から放出していた時点で、彼女は当然人間でもなければ、普通の人形でもないのだろう。

 胡蝶がこの世界に来てから見た赤い炎を纏っていたものといえば、コジローと出会った時に遭遇したクマの人形だけだ。亡霊(ゴースト)と呼ばれる、捨てられた人形の成れの果て。だが、彼女はあの人形とは違う。
 明確な自分の意思や、理性といったものを持ち合わせている。ただ闇雲の人間や人形を襲っている訳ではないのだろう。現に、胡蝶はまだ生きている。やろうと思えば、一息に焼き尽くしてしまえただろうに。

「嫌いって言われたら、どうしようかと思ってたから」

 振り返った彼女の仮面越しの右目は、あの時のように微かに赤く染まっていた。もし「飲めない」と言っていたらと思うと、背筋に震えが走る。
 自分がとんだ勘違いをしていたことをまざまざと思い知らされる。
 外見に騙されてはいけない。彼女も、れっきとした亡霊(ゴースト)であることに変わりはない。下手に逃げ出すのはまずそうだ。
 小梅はただ、胡蝶と遊びたがっている。それならば、危害を加えられないためにも大人しく従っておくのが賢明だろう。

「はい、どうぞ。熱いから、少しだけ冷まして飲んだ方がいいかも」
「……ありがとうございます」
「気にしないで」

 ニコニコと、胡蝶の向かいの席に腰掛けた小梅が、片方の目を細める。
 両方の手で頬杖をつき、彼女は胡蝶をまじまじと観察していた。
 視線を感じながらも、ゆっくりと茶を流し込んでいく。彼女の言葉と反対に、微塵も熱を感じなかった。入れたまま、小一時間程放置していたのではないかという程に、冷え切っている。ドロドロとした冷たい緑色の液体を、吐き出しそうになるのを必死に堪え、胡蝶は必死に飲み込んでいった。

「おかわりは?」
「け、結構です」
「ふーん。残念」

 苦笑いになってしまったのは否めない。少々退屈そうに唇を尖らせた小梅に、悪意は微塵も感じられない。ならば、小梅はあれを本気で暖かいと思い込んでいたのか。
 底知れぬ震えが体の奥から湧き出てくる。口の中が気持ち悪い。今すぐにでもここを立ち去りたい。彼女の側にいるのは適切ではない。

「アンタ、何歳でここに?」

 頬杖を付いたまま、小梅はそんなことを聞いてきた。

「……十六、です」

 未だに信じられないが、本当にあの時死んでしまったのだとすれば胡蝶は高校一年生でこの世を去ったことになる。打ってしまった膝は、未だ赤く色付いているというのに。こうしている今も、お腹は空腹を訴え始めているというのに。
 本当に、おかしな話だ。

「その髪型は、いつから?」

 視線だけを動かした小梅が胡蝶の頭上を見る。真っ赤なリボンで子供っぽくまとめられた、ツインテール。小柄な外観も合わさり、胡蝶をより一層幼く彩っているそれ。似合っているから無理にやめることもない、学生のうちの特権なのだから、と友人達は口を揃えて言うこともあり、癖のようにずっと続けてしまっている。

「……子供の時から、ずっと」

 空の椀を両手でそっと握り締め、胡蝶はぼそりと呟いた。

「やめようとは思わないの? アンタくらいの年だったら、下ろした方が大人っぽく見えるし、似合うと思うけど」

 胡蝶は一瞬、言葉に詰まった。

「……私には、出来ない」
「やめたくない、じゃなくて?」

 この世界に来てからも、制服を纏(まと)い続けているのと同じ。自分の人形達と話が出来るのも、必要とされるのも嬉しい。だが、まだ諦められていない。無様にも、死んだことも信じられず、ひょっとしたらこれは夢なんじゃないか、それどころか、今までのことも全部夢なんじゃないか。本当は両親は離婚なんかしていなくて、今もずっと、胡蝶の帰りを家で待っていてくれるんじゃないか。
 そんな風に信じている自分がどこかに居続ける限り、胡蝶は執着し続けるだろう。

「きっとこれは悪い夢で、次に目が覚めたら全部終わるんじゃないかって……元に戻るんじゃないかって。……ずっと、そう願ってたんです」

 一度壊れたものは、二度と元には戻らない。失った信頼は取り戻せず、なくした愛情がもう一度蘇ることもない。
 縫ったり切ったり、貼ったり。
 破れた人形の修理とは違う。

「子供の時と同じこの髪型のままでいれば、きっと、あの頃に戻れるんじゃないかって。……自分でも、バカみたいだとは思いますけど」
「そう」

 小梅は、静かに相槌を打つだけだった。しばしの沈黙の後、小梅は胡蝶の髪に手を伸ばした。ツインテールのうちのひとふさを手に取り、からめては離していく。重火器を焼き尽くしたその腕で、柔らかく胡蝶に触れる。

「王(キング)がアンタに執着している理由が、なんとなく分かった気がする」

 ドっと心臓の鼓動が数を増す。どうして、亡霊(ゴースト)の王が、胡蝶なんぞに執着しているのか。

「王(キング)だけじゃないわね。アンタ、亡霊に限らず人形にかなりモテるでしょう?」

 口の端を上げた小梅に、胡蝶は目を見開いたまましばし固まった。

 「素敵なご主人様」と目を輝かせていた服屋の店員を思い出す。ついで、ナンパしてきた赤髪の男。コジロー、クリス、クロ、マリア。彼らは胡蝶に対し熱狂的だが、紬の人形であるロップはそこまで過剰ではない。

「アタシだってそう。ずっと、アタシのご主人様だったら良かったのに」

 小梅の瞳に輝きが増す。あの時と同じ。ほとばしる、赤い焔。

「アタシたちにとって、アンタみたいな人間は都合がいいのよ。子供の頃の美しい幻想に囚われたままの、後ろ向きな人間。アンタはアタシたちと過ごした時間を忘れないでしょう? 幸せだった頃の記憶にかじりついて、死んでも離そうとしない。忘れ去られる事の虚しさを、アンタは理解しているんだわ。記憶の海に沈められることが、どれほど恐ろしいことか、わかっている。……本当に、羨ましい。やっぱり、騎士(キャバリアー)には勿体無い」

 自身の指を食みながら、小梅は燻らせた炎をたぎらせていく。

「最初はダシのつもりだったけど、気が変わったわ。アンタは誰にも渡さない。王(キング)にだって、渡すもんですか」

 立ち上がった小梅の仮面の奥にある右目が、文字通り火を吹く。

「さぁ、宴を始めましょう」

 あの日聞いたかのような亡霊(ゴースト)の咆哮が、胡蝶のいる廃屋を大きく揺らした。叫びは共鳴し、次々と数を増す。まだ空は完全には闇に染まっておらず、世界は未だ夕日の色に染まっているにも関わらず。

「何……で……」

「ああ、公爵(デューク)を見るのは初めてなのね」

 手のひらを合わせた小梅が、悪戯っ子のように微笑んでみせる。

「これは、伯爵(アール)以上の位(クラス)特権。近くにいる伯爵(アール)より下位の亡霊(ゴースト)は、ぜーんぶアタシの思いのまま。ま、一回指示を出したら取り消せないっていうのが面倒ではあるんだけど」

 指揮棒のように指を振りながら自慢気に告げる小梅に、ゾッとした。足元から血の気が引いていく。立ち上がることも、身動きをする頃すら出来ず、椅子に座ったまま震えていることしか出来ない。小梅は、そんな胡蝶を気にする素振りを一切見せない。

「お邪魔虫のことは玩具達に任せるとして、何をして遊びましょうか? あやとり? お手玉? それとも双六(すごろく)の方がいいかしら?」

 感覚がずれているとか、そういうレベルの話ではない。獣の咆哮に混じり、こんなにも早く亡霊が現れるとは思っていなかったのであろう人形達の叫び声が聞こえて来る。

「……どうしたの、アタシのご主人様(こちょう)」

 全身に鳥肌が立つ。普通じゃない。最初から分かっていたことに、今更真正面から向き合わせられる。うっとりと目を細めて見せた小梅を瞳に映した瞬間、胡蝶は椅子を蹴り立ち上がっていた。走り出し、咄嗟にドアを開ける。

「残念、ハズレよ」

 その言葉を聞くと同時に、胡蝶の足首に鋭い痛みが走った。立っていることも出来ず、崩れ落ちるように開けた扉の先に滑り込む。床に打ち付けた頰が痛む。足の感覚がない。とにかく熱い。それ以外の感覚が足先から消え果てていた。

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