アフタードールズ

2.それは不幸な事故だった

 頭頂部にて真っ赤なリボンで二つに結われた黒い髪が、胡蝶が廊下を歩く度、さながら垂れたうさぎの耳のように揺れる。
 少しだけサイズの大きい上等な生地で仕立てられた赤紫色の制服、ベストの隙間から覗く大きな赤いリボン、ぶかぶかのスカートを揺らしながら、胡蝶は駆け足気味に階段を降りていった。

 窓の外では、季節の変わり目特有の土砂降りの雨が降っている。
 だが、空模様に反して校内の雰囲気は明るい。
 最近建て替えられたばかりの校舎に、整った環境、小中高一貫の女子校という閉塞的な空間には、テスト明けであるが故の独自の空気が満ちていた。
 学内推薦の為に良い成績を取らなければとピリピリしていた三年生達も、テストが終わってみれば胡蝶達一年生と何も変わらない。
 友達を誘ってはどこかへ遊びに出かけ、良くも悪くもテストの鬱憤をぶつける。ただの現実逃避である事は勿論誰だって分かっているが、皆日頃のストレスを発散したいのだ。
 その気持ちは分からなくはない。

 カバン片手に駆け足気味に階段を駆け下りていく。人混みの中、一回り低い位置にある黒い髪が柔らかく跳ねた。周囲にはこの後どこに遊びに行こうか計画を立てる楽しげな声が満ち溢れていたが、それに逆行し胡蝶は足早に校内を駆け抜けていった。

 いかにも優等生然とし凛と背を伸ばしている胡蝶の頭の中を満たすのは、昨日までのテストの結果ではなく、勿論この後の遊びの予定でもない。
 遊びに行きたくない訳ではないが、今日はどうしても外せない用事がある。
 考えるはただ一つ、今晩の夕食の献立だ。
 近所のスーパーでサンマの特売がある。
 近頃は肉程ではないが魚も高い。金銭的に余裕がない訳ではないが、無駄遣いは極力控えなければ。
 さて、どう調理してやろうか。
 サンマか。サンマといえばやはり塩焼きに限る。大根おろしも付けよう。となると大根も買わねばなるまい。確か冷蔵庫の奥に昨日の野菜炒めの残りはあったが、大根は生憎ストックを切らしている。
 脳裏を過るのは家を出る前に見たスーパーのチラシ。サンマ一匹百六十八円、大根一本八十円は破格だ。よし、急ごう。

 売り切れないことを祈りつつ、胡蝶はより一層校門へ向けた足を速めた。
 傘立てからビニール傘を取り出し、雨の中靴に水が跳ねるのも気にせず駅への道を急ぐ。
 スーパーからの帰り道、胡蝶の足取りは軽かった。
 在庫に余裕があったのか、意外にも楽に買えてしまった。
 それどころか他にもお買い得品を見つけ、なかなかに得した気分だ。トータルで支払った金額は増えた事になるが、細かい事は気にしない。
 校門から出た時にはまだ見えていた太陽も沈み、街灯の仄かな光が雨を照らし光のリングを作り出す。
 歩く度に聞こえてくる、ガサガサというスーパーの袋が立てる耳障りな音も心地よく感じられた。
 人気のない夜道を、一人トボトボと歩いていく。
 雲に覆われた天をビニール傘越しに見上げ、胡蝶は静かに息を吐いた。

 最後に家族3人で食事をしたのはいつだっただろうか。

 一度スイッチが入ってしまえば途端感傷的になってくる。
 子供の時から喧嘩の多い両親ではあった。
 もとより、父も母も働くのが大好きな人で、自己主張が強い。職場結婚だとは聞いているが、職場のパートナーとして最高の相手が人生における最良の相手とは限らない。
 本当に小さい頃は理想の家族の体裁を保てていたものの、反発は年々増し、胡蝶が小学校四年の時に離婚。
 母親と二人暮らしになったところで、両親が仕事人間である事に変わりはない。
 完璧主義だった母は、自分にバツが付いた、という事実を受け止められずにおり、その証拠に、別れたから経済的に少し苦しくなったから働いているというのもあるのだろうが、逃げるように職場にこもりきりだ。

 母曰く「愛娘」である胡蝶の元には滅多な事がない限り帰ってはこない。
 それでも最低限の親としての務めは果たしているあたり、一応は娘がいるという自覚はあるのだろうが。

 力強く踏み出せば、水溜りがばしゃりと音を立てた。

 月に一度、毎月25日になれば、壁に取り付けられた薄型のテレビと黒いソファーに挟まれた、低めのガラステーブルの上に茶封筒に入った「お小遣い」という名の生活資金が、カルティエの腕時計の下に置かれている。
 ペーパーウエイト扱いされるとは、この時計のデザイナーはさぞ不本意だろうと見る度少し複雑な気持ちになるが、胡蝶にとって、これはただの重石以上の何の価値もない。
 金額に不満はない。むしろ十分過ぎる程で、節約生活をする必要性は正直なところ全くない。料理なんかしなくとも、毎日スーパーの惣菜、もしくはコンビニ弁当を食べたとしても、尽きる事はないだろう。

 最初のうち、それこそ両親が離婚したての頃は胡蝶も出来合いの惣菜や弁当、カップ麺で毎日腹を満たしていたが、そんな生活を一ヶ月ほど繰り返した頃、何かきっかけがあった訳ではないが、唐突にかつて母が作ってくれたハンバーグの味を思い出し、小学生だった胡蝶は一人リビングで泣いた。

 その翌日、コンビニではなくふらっと隣町の普通のスーパーに足を踏み入れ、そこでぎこちないながらに一から材料を買い、インターネットから取ってきたレシピを凝視しながら、なんとかハンバーグを作り上げた。
 その時の感動は今でも忘れない。手放しで美味しいとは言えないものだったが、店で売られている出来合い品にはない「何か」がそこにはあった。
 そしてまた、泣いた。
 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら焦げたハンバーグを貪る様はさぞ滑稽だっただろうが、誰もいやしないのだから構いはしない。

 それから、必要に差し迫られた形ではあるが次第に料理をマスターし、今では大抵のものはレシピなしでも作れるようになった。
 調理実習以外の時間に誰にも振る舞う機会がなかった為、客観的に家で作る食事が美味しいかどうかは不明だが、毎日飽きずに食べている、という事は少なくとも不味くはないと思いたい。
 自分の舌を信じるのであらばそこそこな腕前の筈だ。

 ローファーが濡れたアスファルトの上を歩く度、ピチャ、ピチャと軽快な音がする。
 出来る限り出費を最低限で抑えているのは、胡蝶なりの意地だった。
 自分で料理を作るうちに、出来合いの惣菜の値段の高さに愕然とした、節約するのもそれはそれでむしろ楽しい、というのが節約生活の理由の八割を占めているのは確かだが、残りの二割は、両親へのくだらない反抗心だ。
 金に物を言わせればいいというものでもない。
 物を与えれば、いい学校にいれてやればそれでいいとでも思っているのかもしれないが、それは大きな間違いだ。
 ブランド物の服やアクセサリー、くだらない見栄で己を着飾っていた両親への、ほんの些細な反抗心。

 結局は、そんな人達のお金で生活し、バイト禁止、携帯持ち込み禁止などという時代錯誤な高速のある小中高一校、いわゆる「お嬢様学校」に通わせてもらっているのだから、文句を言える立場にはない。
 通いたい、と言った覚えは一度たりともないが、学費を負担してもらっているのなら、胡蝶からもそれ相応の見返りを返さなければ母としては不本意だろう。
 もっとも、中学で生徒会に入ろうが、模試でいい成績を取ろうが、運動会のリレーで一番になろうが、母の胡蝶への態度は変わりはしない。

 25日になれば、いつものようにカルティエの時計の下、胡蝶の留守の間に札束が置かれているだけだ。
 長らく母の顔を見ていないが、元気にしているのだろうか。

 そんな事を考えながらも、胡蝶の足取りは比較的軽やかだ。
 過去を蒸し返した所で現実が変わる訳じゃない。
 それに、自分の境遇が恵まれている事も重々理解しているつもりだ。
 世界ではその日食べるものにも苦労し、毎日を飢えと戦い、学校にも通えない子どもが五万といる。
 そう考えれば、自分はまだマシだ。
 聖人君子でもない限り、人間とは下を見れば見る程楽になる生き物である。
 上を見ていても辛くなるだけ。高望みはするものではない。胡蝶も御多分に洩れずそうだった。
 よそはよそ、うちはうち。

 悲観的になって憂鬱になるくらいなら、開き直って前向きに生きたほうが人間楽なのだ。

 子供の時はよく、構ってもらえない鬱憤を人形達にぶつけていた。

 自分のことを放ったらかしにしている親よりも、逃げずに胡蝶の話に耳を傾けてくれる人形達こそが、胡蝶にとっては最良の遊び相手であり、話し相手だったのだ。

 流石に高校一年生にもなってごっこ遊びはしないが、それでも時折、本当に時々だが、嫌なことがあった時は心の中でそっと人形達に語りかけてみることがある。
 彼らには目も耳も鼻も口もあるが、瞬くことも匂いを嗅ぐことも、当然秘密を漏らすこともない。秘密の相談相手としては適任だった。

 見上げれば、閑静な住宅街の中央に天高くそびえ建つ、見慣れた我が家が飛び込んできた。
 ポケットから乱雑に鍵を取り出し、手慣れた動作でロビーのオートロックを解除する。
 次いで郵便受けから朝夕の新聞と山のようなチラシを取り出し、エレベーターに乗り込んだ。肘で8の数字を押し、エレベータの壁にもたれかかりながら、胡蝶はおもむろに手元のチラシに視線を落とす。
 明日はいつもの店でじゃがいもが特売のようだ。

(明日の晩は肉じゃがにしよう)

 エレベーターを降り、胡蝶は鼻歌を歌いながら突き当たりにある我が家を目指した。

「任せた……って、あなたいっつもそうじゃない!」

 玄関の扉を開けた瞬間、久方ぶりに聞く母の声が胡蝶の鼓膜を刺激した。
 珍しく帰ってきたと思ったら、これだ。
 傘を置き、雨で薄汚れたローファーを脱ぎ捨て、声のする居間へと向かう。
 父の声は聞こえなかった。

 幼少期、人形たちと布団の中に潜った過去から、胡蝶は学んだことがある。
 面倒事、特に親の喧嘩には口を出さないに限る。
 黙って布団に潜り込んでいれば、いつの間にか騒動は終わっているものだ。
 そもそも、養育費の問題などはあるだろうが、別れた旦那と家に帰ってきてまで喧嘩しないで欲しい。

 ——どうせすぐに終わるだろう。

 そう高を括り、通学カバンと新聞、チラシの束を相変わらず子供じみた自室に投げ入れ、慣れた足取りでスーパーの袋片手に居間へと続く扉へ手をかけたところで、胡蝶の動きはピタリと止まった。

「あっそう。自分だけ若い女の子と幸せになろうってわけ」

 眉間に皺が寄る。

「あなたはいつもそう!! 私にばかり胡蝶を押し付けないで!! 再婚するのは自分だけだとでも思っているのかもしれないけれどーー」

 がさり、と手にしていたスーパーの袋が床に落ちた。
 受話器を落とし血相を変えた母と視線がかち合う。
 スプリングケーブルに吊るされた受話器が不規則に揺れた。

「胡蝶、あなたには後でちゃんと話すつもりで」

 握り締めた手のひらに爪が食い込むのも気に留めず、踵を返す
 。頭の中が真っ白になる。噛み締めた唇から、微かに血の味がした。
 結局、両親にとって胡蝶の存在は「過ち」でしかなかった。それ以上でもそれ以下でもない。若気の至り、お荷物。
 分かっていても、その事実をまざまざと突き付けられるのは、かなり堪えた。普通の子供のように、頭を撫でてくれるだけでいい。よく頑張ったね、またかつてのように、家族三人幸せに暮らしていたあの頃のように、そんな安っぽい言葉を掛けてくれるだけでよかったのに。

 それなのに。
 背中越しに女の声が聞こえる。それを頑なに拒み続け玄関の扉を目指し一直線に足を動かす。
 アテなんてない。それでも、この家以外の場所ならどこだって良かった。

「胡蝶待ちなさい! とにかく話を!」

 ふつふつと、どこからともなく熱が湧き上がってくる。
 言い訳なんて今更聞きたくない。立ち止まった胡蝶に、許してもらえたと勘違いした愚女は慈悲深い笑みを浮かべ娘へと手を伸ばす。

「私の話には、これっぽっちも耳を傾けてくれなかったくせに!!」

 引き止めるように強く手首を掴んできた腕を、渾身の力で振り払う。
 今までろくな反抗期もなく、大人しく金を受け取っていた娘の鬼の形相に、女はぎょっと目を見開いていた。いつだって胡蝶の話を聞いてくれたのは人形達だった。

 だって、そうするしかなかった。

 帰りを待っていてくれたのも、食卓を共にしてきたのも、両親ではない。仕事に逃げ、娘との、家族とのコミニケーションを拒み続けてきたのは女の方だ。それを今更「話をしよう」だなんて笑わせてくれる。
 品のいい顔が悲痛に歪む。未だ被害者面を貫く女に、怒りを通り越して反吐を覚えた。
 居間に取り残された受話器の向こうからは、状況を把握出来ていないのであろう喚き声が聞こえてくる。

「今更、母親面しないで」

 吐き捨て、胡蝶はドアの隙間に滑り込むようにして一目散に家を飛び出した。エレベーターに乗り降下する間、傘も財布も、スマートフォンすら持たずに飛び出してきたことを思い出す。

 外は未だ土砂降りの雨が降り続けているが、傘を取りに戻る勇気はなかった。エレベーターの扉が開いた瞬間、制服姿のまま全速力で足を動かし、どこへ向かうでもなく雨の中を走り抜けていく。水を吸収した制服が、どんどん重くなってくる。

 家への帰路を逆行し、人通りの少ない路地を走り抜けていく。込み上げてくる嗚咽を必死に噛み殺し、思考を掻き消すように走り続ける。息が激しく乱れ出した頃、ようやく胡蝶はゆっくりと足を止めた。周囲に人気はない。
 ヒックヒックと抑えきれずに漏れ出た声が、無様に夜の闇に響き渡る。家々に灯された明かりが、いつもの何倍も眩しく感じられた。

 月も星も雲に覆われた雨空の下、胡蝶はおもむろに空を見上げた。
 雨はまだ止まない。お腹が空腹を訴える。
 髪の毛に染み込んだ水が、ぽたり、ぽたりと雨に混じり、地面にシミを作っていった。

 そういえば、せっかく買ったサンマを食べ損ねてしまった。冷蔵庫にも入れていないのに、傷んでしまうではないか。
 それに明日は英単語のテストもあった筈。
 ああ、帰ったら連絡すると友達に言われていたっけ。

 やることはまだまだたくさんあったのに、無計画に飛び出してきてしまった。
 だが、もうどうでもいい。
 今まで何の為に頑張ってきたのか分からなくなってくる。
 自分がどうしてここにいるのか、存在意義すらも見失っていた。
 トボトボと下を向いて壁伝いに歩いていく。この道は人が滅多に通らない。車も数えるほど。
 だから、油断していなかったかと言われれば嘘になる。

 耳をつんざくような車のクラクションが聞こえてくる。
 振り向くのと同時に、ヘッドライトの灯りが霞んでいた胡蝶の視界を真っ白に染め上げていった。

 強い衝撃に、体が宙を舞う。
 ゆっくりと回りながら落ちていく中、自身が先程まで立っていたはずの場所が視界に飛び込んできた。
 住宅街のありきたりな道。コンクリートの壁に囲まれた、ありふれたアスファルトの上。
 決して、死にたかった訳じゃない。
 自殺願望なんてこれっぽっちも持ち合わせてはいない。毎日はそれなりに充実していた。一人暮らしも気ままでいいものだった。不満を言うなんて傲慢でしかない。
 本当に、己の自分勝手さに吐き気がする。
 無謀だと分かっていても、上を見てしまうのもまた人間の性。

 必要とされたかった。
 誰かから明確に、特別だと言って欲しかった。
 愛されているという、明確な証が欲しかった。

 暗くなっていく世界の中、ボッと本当に小さな小さな、慎重に耳を済ませなければ聞こえないような微弱な破裂音がした。
 最初に眼前に現れたのは、微細な赤い、焔。
 光は次第に数を増し、落ちていく胡蝶の体を暗闇の中うっすらと浮かび上がらせる。

 ああ、燃えている。
 炎の海の、中にいる。
 喉が焼けるように、暑い。

 これが、死ぬということなのか。

 瞳を閉じても、炎は消えてくれない。瞼の裏にこびりついている。
 瞼の裏に広がった炎の海の中、胡蝶の頭の中にこれまでの16年間の思い出が浮かび上がっては消えていった。
 様々な記憶の奔流の中、最後に過ぎったのは幼少期の思い出。

 かつて一度だけ訪れた遊園地が、胡蝶の脳裏に焼き付いて、離れなかった。大きな観覧車が廻っている。電飾を取り付けられた巨大な観覧車が、夜空に輝く月のように、ぼんやりと暗闇に浮かび上がる。
 再度破裂音が響き渡る。脳裏に浮かんだ観覧車を、急速に広がった炎の海が飲み込んでいった。

 夜空に広がるのは、一面の雨雲。月も星も見えない、真っ暗な夜のこと。
 ああ、雨が降っている。

 ざあざあと、土砂降りの大雨が。

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