アフタードールズ

26.観覧車

 クリスの意思に呼応するかのように、それまで一度たりとも止まることのなかった観覧車が動きを止めた。ぎぃぎぃと微かな金属の軋む音を立て、ゴンドラの扉が一人でに開く。

「さぁ、胡蝶」
「お嬢!」

 二人の間を引き裂くように、遠くから聞き慣れた男の声が聞こえた。銃声に混じって聞こえる小さな爆発音。近くで、コジローが戦っている。
 胡蝶がコジローを視界に入れるのを邪魔するかのように、それまであくまでも胡蝶の意思を尊重しようという態度を貫いていたクリスが、主人の腕を無理やり引くという暴挙に出た。

「コジ――!!」
「終わらせたりなんかしない、絶対に」
「離、して!」
「嫌です」

 胡蝶の意思に反して、クリスは観覧車の搭乗口に向かって歩を進めていく。ずるずると引きずられていく。あれに乗ってしまえば、二度とは戻ってこられないような気がした。人形達の思いが作り出した街、その中央。この観覧車はクリスの思いの結晶そのものだ。彼の想いは暴走してしまっている。もう胡蝶の意思とは関係なく、クリスは彼の信じる正義を貫こうとしている

「本当に、やめて……! 嫌な、の!」
「どうして?」

 色とりどりな光を放っていた電飾達が、一斉に赤に染まる。

「戻りたいと望んだのはあなた自身の筈だ」
「確かに、そうだったかもしれない。……でも、こんなのは嫌!」

 クリスの眉間に皺がよる。

「誰か一人の幸せのために、他の人を傷つけてもいい訳がない。……少なくとも私は、マリアの死なんて望んでなかった!」

「お嬢!」

 再度、コジローの声。先ほどよりも近い距離だった。胡蝶を引く腕の力が強くなった。
 胡蝶の視界を遮るような形で、クリスに担ぎ上げられてしまう。そうなれば、いくら抵抗したところで無駄に終わる。じたばたと手足を必死に動かし反抗する胡蝶を片手で軽々と押さえ込み、足早にゴンドラへと向かっていく。
 抵抗虚しく、胡蝶はクリスの手によりガラスの箱へと押し込められてしまった。全面ガラス張りの、純白の箱。胡蝶の意思に反して、ぐんぐんと高度を上げていく。
 狐の人形と二人きり、天高く押し上げられていく。白い霧の中、緩やかな弧を描いて。

「綺麗でしょう?」

 悠々と胡蝶の向かいの席に腰掛けた男は、窓の外を眺めうっとりと目を細めて見せた。窓の外には霧が満ちている。その中で、数多の赤い炎が天の川のように輝いていた。それに混じり、時折青い炎が上がる。人形達の、命の色。赤が勢力を増すたびに、心にナイフを突き刺されたような衝撃が走る。

「クリスは、王様なんでしょう。 だったら、こんなこと今すぐにやめさせることも」
「出来ませんよ」

 それまで窓の外を眺めていた瞳をクリスの方へ向ける。軽く頬杖をついた男は、椅子に深く腰掛けながら戯れに微笑んで見せた。

「ある程度の指示なら出せますが、他の人形や人間を焼き尽くそうとする彼らの本能までをも抑えることは不可能です。一度始まったものを止めることは出来ません。騎士(キャバリアー)の次は一般人を。それすらも焼き尽くしたのなら、次は「共食い」を始める」

「……共食い」

「私の出した指示はただ一つ。「王とその主人には攻撃するな」、それだけです。文字通り、彼らは「私たち以外の全て」を焼き尽くしてくれることでしょう」

 小梅と同じだ。普通の人形と同じ見た目をしていながら、思考回路は破綻している。クリスはクリスの価値観で動いている。もはや、胡蝶が何を言ったところで無駄だった。

「ああ、あなたは本当に美しい」

 しばしの沈黙の後、クリスの腕は胡蝶のツインテールのうちのひとふさへと伸ばされた。微笑みながらもいつも冷めた目をしているのに、胡蝶に向けられる瞳だけは酷く熱い。黒い瞳で真っ直ぐに胡蝶の姿を射抜く。
 観覧車はもう少しで頂上へとたどり着く。霧の蔓延る夢の街が、遥か彼方に見えた。ちらちらと目に飛び込んでくる赤い閃光。人形達の夢が、終焉を迎えようとしていた。

「綺麗だと、私を胸に抱きながら窓の外を眺めていたあなたの心は、何よりも輝いていた。遊園地のイルミネーションなんかとは比べ物にならない。……比べることすらもおこがましい」

 椅子から立ち上がり、向かいの席に座り込んだ胡蝶をそっと抱きしめる。胡蝶よりも遥かに巨大な体躯をしているというのに、クリスは幼子のようだ。母親との別れを頑なに拒む、小さな雛のよう。

「胡蝶。私の、愛しいご主人様」

 クリスの想いは一方的だ。真っ直ぐで、それでいて残酷。
 胡蝶以上に、彼は進むことを恐れている。この時を永遠に閉じこめてしまいたい、ずっと胡蝶と二人きりでいたい、独り占めにしていたい。子供が自分のおもちゃに執着するのと何も変わらない。

「どうか、私を拒まないで」

 額に落とされた唇は、酷く怯えを含んでいる。
 物騒な光を宿しながら、クリスの体は震えている。亡霊の王と呼ばれるまでに忌々しいものに成り果ててなお、彼は恐れている。胡蝶が離れていくことを、忘れてしまうことを、捨てられてしまうことを。だから時を止めてしまいたかった。幸福な時間に呪われた、一匹の小さな狐。
 かつての胡蝶と同じなのだ。ここに来たばかりの胡蝶と同じ。
 私は誰からも必要とされていない。誰でもいいわけじゃない。けれど、私の愛した人から、明確に愛されたいという証が欲しかった。
 愛に飢えた、かわいそうな人形。

「クリスの気持ちは、よく分かった」

 大きな子供が震えている。その背を優しく撫でながら、胡蝶は正直な想いを吐き出した。

「――けれど、その思いに応えることは出来ない」

 明確な、拒絶。偽りの肯定ほど、残酷なものはない。それを胡蝶は身をもって味わっている。嘘はつきたくない。胡蝶を心から愛してくれた人形に対しての、胡蝶なりの精一杯の誠意だった。
 愛しているから、それで全てが許される訳がない。
 この世界は楽しいことばかりではなかった。けれど、胡蝶は他の大多数の人形達と同じように、この世界を愛した。優しい狐が連れてきてくれた、人形達の夢の世界(くに)。

 頂点にたどり着けば、あとはゆっくりと降下していくだけ。

「確かに、あの頃は幸せだった。でも、今だって十分幸せなの。昔と今をはっきりと比べることは出来ないし、どっちの方が幸せだったと優劣をつけることも難しい。けれど、私は前を向いて「今」を生きていきたい。あなたが連れてきてくれた、この優しい世界で」

 クリスから見て、胡蝶の現実(いま)に救いはなかったのかもしれない。

「ねぇ、クリストファー」

 けれど、この世界で胡蝶はやっと見つけることができたのだ。自分の居場所を。「ただいま」を言う場所を。「おかえり」を言ってくれる人たちを。

「――私を愛してくれて、ありがとう」

 子供の夢の続きはおしまい。すぐ近くで銃声が聞こえる。黒いスーツに黒い髪、全身黒ずくめの不審者のような男が、胡蝶の帰りを待っている。

「……嫌だ」

 微かに聞き取れる程度の小さなぼやき。狐の人形がゆっくりと胡蝶の両肩をつかみ、体を起こしていく。

「終わりになんて、させはしない。それが例え、他ならぬあなたの望みであろうとも」

 クリスの目は胡蝶を射抜いてはいない。彼は今の胡蝶越しに、過去の胡蝶を見ている。後ろめたいものを抱えながら、毎日を孤独に暮らしていた、ここにくる直前の胡蝶を。
 暗い目をした狐が、口角を釣り上げる。息を吸いこもうと小さく開けられた胡蝶の口に、クリスのものが重ねられる。目を見開き、必死に唇を閉ざし口付けを拒む少女を無理やりこじ開け、王子様は胡蝶の奥へと押し入った。

「っ……!」

 クリスが小さく悲鳴をあげ、胡蝶を解放する。
 明確な拒絶に、狐の目はこれ以上ないというほど細められていた。自身の口を親指でなぞり、クリスは冷たく笑う。

「……物理的に痛みを感じなかったとしても、心の痛みまで感じないわけではないんですよ。……酷い人だ」

 もうすぐ観覧車は一周を終えようとしている。すぐ近くに、コジローの姿が見てとれた。観覧車へと至る丘の下、次々に襲い掛かってくる敵を二丁の拳銃で華麗に捌きながら、コジローは徐々に観覧車のふもとへと近付いていた。
 初めて見る、コジローの真剣な仕事姿。あれが、コジローの本来の実力なのだろう。二つの銃を容易くに操りながら、次々と亡霊達を仕留めていく。スーツの裾をはためかせ、サングラスを外した狼は鋭い瞳で一発の銃弾を胡蝶達の乗るゴンドラへと向けて撃ち放った。
 硝子を突き破り、一発の銃弾がクリスのこめかみすれすれを通り抜ける。小さく舌打ちを零し、クリスは眼下で挑発的に口角を釣り上げている狼の人形を忌々しげに射抜いていた。

「続きは、また後ほど」

 口下を右手の甲で拭いながら、胡蝶の姿を最後に一度だけ目に留め、クリスはゴンドラを降りた。胡蝶もゴンドラから降りようとするも、ゴンドラはクリスの降りた直後、自動扉のように即座に閉まってしまう。

「開い、て……っ!!」

 何度叩いたところで、扉は虚しく振動を胡蝶の手のひらに伝えるだけ。やがて、ゴンドラは再び上昇を始める。へなへなと、その場に座り込む。逃げることもできず、眼下で火蓋を切ろうとしている戦いを、胡蝶は黙って眺めていることしかできなかった。

「お嬢はどうした」

 観覧車から一人降りてきた男に、あらかたの亡霊(ゴースト)を始末し終え、丘へと至る階段を上っていた男は唾を地面に吐き出した。
 観覧を取り囲むような形で作られた、丘の上の小さな広場。その中心、観覧車を背後に二体の人形は向かい合っていた。白い霧が辺りを包んでいる。場違いな音楽と共に、亡霊達の嬌声が響き渡っていた。

「そこで見物してもらっています。ああ、そんなに怖い顔をしなくても、別に危害は加えていませんよ。私が胡蝶を傷付ける筈がないでしょう?」
「どうだかな――っ!」

 交互に打ち放たれる弾丸。それらを黒い炎でコーティングした右腕で軽く振り払い、王(キング)が踏み出す。それが、戦いの始まりを示す合図だった。

「今のお前は、厄病神も同然だろうが……!」
「聞き捨てなりませんね」

 間髪なく叩き込まれる銃弾の雨。そのうちの一発がクリスの腹部を僅かながら掠め取った。小さく燃え上がる青い焔。だが、この程度ならかすり傷の範疇だった。間髪入れず湧き出した黒い炎が、跡形なく青色を消し去っていく。

「私からすれば、あなたの方が厄病神ですよ」

 クリスの瞳に宿る熱が増す。黒い閃光を放つ男の体から、花弁のように黒い光が舞い上がる。

「邪魔で邪魔で仕方がない、胡蝶の心に染み付いて離れない鬱陶しい害虫が」
「よく言う」
「胡蝶は私だけのご主人様です。あなたにとやかく言われる筋合いはない!」

 男の体から放たれた炎がコジローの頰を掠める。微かに右頰が熱を持つ。お返しとばかりに撃ち放った弾丸が、クリスの両足に直撃した。通常の亡霊(ゴースト)なら、これで足の機能は失われる筈だ。かなりこちらが有利になる。だが、相手は亡霊の王。伊達に、王を名乗っているわけではない。黒い炎は主人への妄執。下手をすれば、こちらまでもが深すぎる闇に引きずり込まれてしまう。

 ケタ、ケタ。

 微かな笑い声。その後、着弾地点から燃え広がった青い炎を遥かに凌駕する質量の炎が、クリスの両足から噴き出してきた。ケタ、ケタケタケタ。
 壊れた玩具は笑う。肩を震わせ、焦点の合わない目で。決して自分は壊れてなんかいない、おかしいのはお前の方だとこちらを嘲り嗤う。
 渋いとい男だ。形見と自身の銃口を向けながら、コジローは亡霊を睨みつけた。

「お前のご主人様じゃない。お嬢は、「俺達の」ご主人様だ」 
「……あぁ、あぁ。あぁああぁ。そういうところですよ」

 黒い炎を絶えず吹き出し続ける片目に片腕を当て、瞳孔の開ききった男は引き裂けんばかりに口角を吊り上げた。

「そういうところが、本当に癪に触る!!」

 最早王子様の顔を保つことを諦めた悪霊が、真っ直ぐにコジローの懐目掛けて炎を撃ち放ってくる。まずい――!! 来ると分かっていても、体の動きがクリスのそれに追いつかない。腹部に叩き込まれる、真っ黒な拳。

「――ゴッ……っ!」

 じわじわと体を蝕んでいく、歪な黒い炎。赤いそれとは比べ物にならない衝撃。ゆっくりと体を支配していく暗い感情。
 上から戦いの一部始終を眺めていた胡蝶は口元を両手で覆い、声にならない叫びを上げた。どうすればいい。どうしたらいい。
 必死にガラス戸を叩いたところで、割れる兆しはない。全身を使い扉にアタックをかけてみるも、びくともしない。鍵は見当たらない。それなのに、微塵も扉は動いてはくれなかった。胡蝶の意思に反し、ゴンドラは天高く昇り続ける。

「コジロー!!」

 泣き叫んでも、コジローの体に宿る炎が消える素振りはない。声すらも届かない。何もできない、また、何も出来ないままなのか。ただ黙って消えるのを見ているしかできない。それが厭だから飛び出してきたのに、それなのに、これでは何も変わらないではないか。

「自分に正直になればいい」
「何の、話だ」

 沈下を図ろうと自身の体に銃弾を打ち込んでいく。一瞬、青が勢力を増す。だが、クリスの笑みに呼応するかのように黒は再び勢力を増す。かろうじて二つの色は均衡を保っている。
 やろうと思えば、一瞬にしてコジローを消し炭にすることが出来るのに、あえてクリスは楽しんでいた。銃弾が切れるその時が、コジローの灯火の終わる時だ。

「あなたとは長い付き合いですし、それなりに理解しているつもりです」
「だから、何の話を」
「善人ぶるのはやめろ、と言っているんです」

 クリスの言葉を遮るようにして、コジローは再び腹部に弾丸を放った。ついで、苛立ちを込めクリスに一発。眉間に当たった弾丸から、巨大な青い炎が上がる。だが、すぐに黒に打ち消されてしまう。舌打ちをこぼしたところで、炎が止まる訳でもない。

「あなただって、胡蝶を独り占めしたかった。違いますか?」

 一瞬、コジローの瞳が見開かれる。だが、すぐに男はその顔にあからさまな嘲笑を浮かべた。

「――それを、お嬢が望むと思うか?」

 しばしの沈黙の後、コジローはそんな答えを返した。
 クリスの目が尚細められる。コジローの体を蝕む炎に勢いが増した。

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