アフタードールズ

27.金色の夜



 何度も何度も、胡蝶は観覧車の扉を叩き続ける。ここで、ジッとしているだけなんて嫌だ。このままでは、コジローも死んでしまう。大切なものが、また一つなくなってしまう。

 一筋の涙が胡蝶の瞳から零れ落ちた瞬間、うなだれる胡蝶の視界に、金色の光が飛び込んできた。涙に霞んだ胡蝶の目元を、優しく照らし出す黄金の光の雨。
 微かに開いたゴンドラの扉の隙間から侵入してくる、意思を持った優しい光。暗闇の中、胡蝶の周りだけがうっすらと星の色に染め上げられた。
 やがて、それは一羽の蝶になった。金色の蝶。マリアにあげたブローチとよく似た、金細工の蝶。ぱちぱちと、数度瞬きを繰り返す。次に目を開けた時、先程クリスが座っていた場所に一人の女性が座っていた。長い足を組み、頬杖をつき、胡蝶の作ってやった黒いドレスに身を包んだ、胡蝶の歌姫。眼下の戦いを眺め、呆れたように溜息を吐く。

「そんな風に泣くものじゃないわ。まったく、胡蝶を泣かせるだなんて……なさけないったらありゃしない」
「マリア! 生きて――!」

 そこまで叫んだところで、胡蝶は言葉を失った。うっすらと光る体の輪郭、マリアの体越しに夜空が見えた。ぽろぽろと滝のように涙を流す胡蝶に、マリアは困ったように微笑むだけだ。

「そんな顔しないで。私は、胡蝶を困らせたい訳じゃないんだから」

 涙を拭う指には、微かながら感触がある。優しい感触に、さらに涙腺を刺激された。

「残念ながら、私はもう直ぐ消えてしまう。この姿を保っていられるのも、時間の問題」

 響き渡る亡霊達の歌声。マリアの微笑みが、翳りを帯びる。

「私たちは夢の欠片」

 儚げに笑った人形は、そんな言葉を口にした。

「『私たちは夢の欠片
 水底に沈むあなたの過去
 葬り去られたあなたの未来
 どうか、どうか忘れないで
 炎の海へと沈みながら
 それでも願わずにはいられない
 ああ、私たちのご主人様
 願わくば
 あなたの行く道が、末永く幸せでありますように』
 ……なーんてね。物騒な詩でしょう?」

 困ったように、マリアの目が細められる。
 
「今のは……」
「私たち人形に刻みつけられた呪い、みたいなものかしらね。この世界の人形達なら、みんな知っている奇妙な詩。ほんと、……おかしな話よね。……みんな最初は、持ち主の幸福を願っていたはずなのに」

 この世界の霧全てを振り払うようなそんな笑顔を浮かべ、歌姫は肩をすくめて見せた。

「ねえ、胡蝶。あなたは、クリスを恨む?」

 問いかけは、どこまでも穏やかだった。
 クリスに命を奪われたというのに、マリアはなんでもないことのように男の名を口にだす。
 反射的に、胡蝶は首を横に振っていた。

「恨まない」

 クリスを変えてしまったのは他でもない胡蝶だ。
 どんな形であれ、クリスの心を踏みにじった。
 その結果がこれなのは、自分を責めるのではなくクリスを恨むのはお門違いだと、そう思えた。

「でも、クリスをこのままにはしておけない。私は、私の大切だと思うものを守りたいから」

 胡蝶を笑顔で迎えてくれる人が、大切な場所が出来た。
 何も持たない胡蝶を、あの人たちは暖かく迎え入れてくれた。
 だから今度は、胡蝶が恩を返す番だ。

「胡蝶なら、そう言うと思ってた」

 マリアが満足げに微笑むと同時に、ゴンドラの扉が開いた。強い風が、胡蝶の髪を揺らす。到底飛び降りられるような高さではない。優に100メートルはあるだろう。普通に考えて、飛び降りれば確実に死ぬ高さだ。まじまじとマリアの顔を見つめる胡蝶を、マリアは立ち上がり、柔らかく抱きとめた。

「大丈夫よ、胡蝶の願いは、必ず私が叶えてみせる」

 一際強い風が吹く。次の瞬間、胡蝶はマリアに抱きとめられたまま、真っ逆さまに地面に向かって落ちていった。金色の光が胡蝶の体を包み込む。

 ――ずっと、一緒にはいられない

 マリアの体は次第に蝶の群れへと姿を変えた。
 眩いばかりの、黄金の蝶の群れ。

「マリア……っ!!」
 
 指の隙間を、金の光はすり抜けていく。
 紅茶を入れると約束した。まっさきに駆けつけてくれると、そう誓ってくれたのに。その思いは遂げられることなく、歌姫は黄金の光の海になる。

 ――けれどやっぱり、忘れられてしまうのは寂しい

 胡蝶の体を優しく包み込む、金色の光の渦。
 どこからか、マリアの声が聞こえた。

 私たちは夢の欠片
 水底に沈むあなたの過去
 葬り去られたあなたの未来
 
 どうか、どうか忘れないで

 炎の海へと沈みながら
 それでも願わずにはいられない

 ああ、私たちのご主人様
 願わくば
 あなたの行く道が、末長く幸せでありますように

 ゆっくりと、地面へ向かって落ちていく。決して、恐ろしくはなかった。
 胡蝶の手のひらには、金色のベレッタが握り締められている。マリアが胡蝶に残してくれた、最期の力の結晶。金色の蝶の飾りがついた、黄金の銃。
 絶対に忘れたりしない。胡蝶を愛してくれた、一人の歌姫がいてくれたことを。
 ゆっくりと地に足がつくと同時に、蝶達は霧に混じり消えてしまった。

「クリス……っ!!」

 まっすぐに、クリスの姿を射抜く。振り返ったポニーテールの男は、大きく目を見開き、胡蝶の姿を捉えていた。

「もう、終わりにしよう」

 子供の夢は終わりを告げる。
 男と視線が合うと同時に、銃の引き金を引く。驚くほどに、軽かった。
 飛び出したのは、黄金色の巨大な蝶。金色の光を放つマリアの魂が、一直線にクリスの胸を射抜く。撃ち抜くと同時に、ベレッタは他の蝶達と同じように、光の粉となり天高く消えていった。
 着弾地点から上がるのは、炎ではなく優しい光。黒い炎の塊が、黄金に焼き尽くされたいく。光の雨が周囲を明るく染め上げていく。
 クリスを中心に舞い上がる金色の雨が、コジローの体をも柔らかく包み込む。男の胸に宿っていた炎が、ゆっくりと鎮火されていった。

「あ、ま、マぁあァああぁア、リィぃいぃいいぃぃ、アァアァァァァァアアアアアアアアアアアアァァァアアアアアああぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 クリスの絶叫が響き渡る。最期の、執念の叫び。マリアへの呪いを吐き出しながら、地面に倒れこんだ男は、濁った瞳で真っ直ぐに胡蝶へと手を伸ばす。

「こ、ちょウ、ゥ。私の、わ、たし、ノ、わたしの!! わ、ぁ、たし、の、わた、わたわたわたワたシの! 胡蝶……! こ、ちょう、こちょう、こちょう胡蝶コチョウこちょうチョウこ、チョう!!!」

 その腕を反射的に掴もうとして、伸ばされたクリスの腕が、青色に塗り替えられた。一発の銃弾が、クリスの手のひらを射抜いていたのだ。
 金色の光と青い炎が、狐の体を蝕んでいく。

「下がれお嬢」

 胡蝶に背を向けた、一匹の狼。息を切らしながらクリスを冷たい目で見下す、ボロボロのスーツ姿の男がそこには立っていた。
 金色の雨が降っている。コジローの背中越し、胡蝶は視線をクリスから逸らさなかった。胸の前で両手を握りしめ、雨のなか亡霊の王の最期を見届ける。
 ぱちぱちと、小さな炎の音。赤色だった白い霧が、次第に黄金に染め上げられていく。赤を塗り替えていく美しい光の波。亡霊達の嘆きをも沈める、歌姫の最期の声が世界を塗り替えていく。

「こ、ちょう……私の、胡蝶……!!」

 光は次第に弱くなり、金色の雨の中、コジローの放った青い炎が徐々にクリスの体を焼き尽くしていく。人の形を保つことすらも難しくなったのだろう。胡蝶のよく知る、二頭身の人形がそこにはいた。
 短い手足を必死に動かし、胡蝶の姿を真っ直ぐに捉える。
 その腕で抱きとめてほしい、愛していると言って欲しい。
 だが、小梅の時と同じように前に出ようとする胡蝶を、コジローは頑なに押しとどめていた。

「お前のじゃない」

 再度放たれた弾丸が、狐の人形を激しく燃え上がらせていく。青い炎に全身を包まれた人形の、最期の叫びが激しく二人の鼓膜を揺らした。

「――俺の、胡蝶だ」

 雨はまだ止まない。忌々しげに再度放たれた銃弾が、クリスの姿を一層燃え上がらせる。青い炎が輝いていた。消えていく、胡蝶の幻影。胡蝶を蝕んでいた、優しい悪夢。
 王(キング)が事切れたその瞬間、ゆっくりと観覧車は動きを止めた。がしゃん、と重たい金属の音。それまで夜を支配していた霧は晴れ、あたりは嘘のように静まりかえっている。金色の雨だけが、変わらずに降り注いでいた。

「は……っ」

 小さな呟きを漏らし、コジローはその場に崩れ落ちた。

「コジロー!」

 男の正面にしゃがみ込み、黒い炎の上がっていた男の腹部を見ようと真っ黒に焦げてしまった白いYシャツをめくり上げてみせる。特に抵抗はされなかった。気力がないだけなのかもしれないが、後ろでに両手をついた男は、胡蝶にされるがままになっている。
 腹部にぽっかりと開いた穴を目に留めた瞬間、自身の首に腕を回し、声も上げずに泣き出した主人に、今度はコジローの方が困惑する羽目になった。
 ひざ立ちとなった胡蝶の背を軽く撫でながら、静まりかえった夜の丘の上に二人きり、金色の雨に打たれている。

「これくらい、すぐに治る」

 首筋に顔をうずめたまま首を左右に振ってみせる胡蝶に、コジローは苦笑いを返した。

「……ごめんなさい」

 最初に耳を掠めたのは謝罪の言葉。

「ごめんなさい。……本当に、ごめんなさい」

 鼻声混じりの、小さな声。それは、誰に対して向けられたものなのか。

「――お嬢は、何も悪くない」

 狼の人形は、いつもと同じ答えを返すだけだ。胡蝶がそれを望まなかったとしても、胡蝶の人形であり続ける限り、胡蝶に必要としてもらえる限り、コジローは胡蝶を肯定し続けるだろう。
 カーニバルは、もうおしまい。
 金色の雨は次第に質量を増し、小さな光の粒となった。風に搔き消える、優しい歌姫の声。静まりかえった夜の闇の中、金色の月だけが優しく二人の姿をを照らし出していた。

「帰りましょう、お嬢」

 ゆっくりと、胡蝶が顔を上げる。見下げた先のコジローの顔は、柔らかい。
 狐の見せた優しい幻想は終わりを告げた。けれど――
 丘の下に広がる夜の街を眺めてみる。夜風が柔らかく胡蝶のツインテールを揺らした。光の消えていた街に、ぽつぽつと青い光が浮かび上がり始める。

「……そうだね」

 人形達の夢は、終わることなく続いていくだろう。これからも、永遠に。

 人形達の歓声に包まれた青い街の中、胡蝶達は真っ直ぐに古谷裁縫店を訪ねて行った。主人に抱きとめられ戻ってきた、腹にぽっかりと穴の開いた人形と、酷く疲れた顔をしたその主人。

「その……ロップ、ごめんなさい。あなたの、マスケット銃は、その……」
「――本当に、お前達は人騒がせな奴らだ」

 うなだれる胡蝶の言葉を遮り、二人を出迎えたロップは険しい顔をした。腰にフリルのついた服の袖を当て、仁王立ちで溜息を吐く。

「……ごめんなさい」
「今更何を謝っているんだか。……もっと他に、言うことがあるんじゃないのか?」

 恐る恐る胡蝶が見上げた先の口角は、小さく吊り上げられている。
 呆気にとられた顔してしばし固まった胡蝶に、ロップは小さく吹き出した。

「おかえり、胡蝶」

 夜はまだ明けない。

「ただいま」

 見事な金色の満月が、人形達の姿を優しく照らし出していた。





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