アフタードールズ

終幕


 羽住智彦(ハスミトモヒコ)は、どこにでもいる普通の人間だった。
 そこそこの給料を稼ぎ、そこそこに煙草を嗜む、どこにでもいる平凡なサラリーマン。
 当たり前のように結婚し、取引先の女社長と結婚。
 一人娘を設け、程々に幸せな日常を送っていた。
 娘を愛していなかった訳じゃない。むしろ、あの頃の智彦は娘を溺愛していた。
 だが、平社員に過ぎない智彦と、大会社へと成長しつつある別れた妻とではどちらに親権が渡るのか、馬鹿でも分かるような話だ。
 結果、智彦は元妻に娘を奪われた挙句、「バツイチ」という汚名を背負って生きることになった。思い出したくもない過去だ。
 別れてからもう何年も経つ。新しい恋人もでき、元妻の顔も、愛娘の顔も記憶の彼方から消え果てようとしていた、そんな夜だった。
 有村三佳子(アリムラミカコ)に、電話を掛けたのは。

 先程まで電話口で口論していたはずの相手と、同じ部屋にいる。
 静まり返った病院の一室に、心音計の音と、三佳子のすすり泣きがこだまする。
 およそ10年ぶりに見る娘は、交通事故にあったとにわかには信じらず、まるで眠っているかのように、綺麗な顔をしていた。
 智彦が描いていた娘の成長像そのもの。白いシーツの上に広がる長い黒髪。
 医者の話によると、今夜が峠らしい。
 突然の事態に頭がついていかない。
 未だに混乱している。
 それには少なからず、病室を訪れた警察官の不可解な発言も影響していた。

「……ですから。防犯カメラの映像を解析した結果……お嬢さんを刎ねたトラックには、誰も乗っていなかったんです」
「そんな筈ないででしょう!? じゃあなんなんですか!? 娘は幽霊にでも刎ねられたって言うんですか!?」
「いえ、こちらではなんとも」
「それでも警察なんですか!? 大事な一人娘なんですよ!?」
「よさないか、三佳子!」

 警察に掴みかかろうとする三佳子を必死に押しとどめたのが、およそ一時間前。
 時間は夜中の二時。胡蝶は、未だ目を覚まさない。
 
「少し、出てきたらどうだ」

 三佳子は首を頑なに縦に振ろうとはしない。彼女は自分を責めていた。
 私のせいだ。私が、私が、あの子を傷付けたから。
 電話口に娘とのやり取りをうっすらとしか聞いていない智彦には、胡蝶が何を母親に吐き捨てたのか、はっきりとは分からない。
 けれど、三佳子が直前に言った台詞。
 あれが、少なからず胡蝶を傷付けたのはまぎれもない事実だろう。
 だが、今それを後悔したところでどうなる。
 胡蝶が目を覚まさない限り、真実は闇の中。
 詫びたところで、娘が帰ってくるわけでもない。

「……何か買ってくる」

 そう言って立ち上がった元夫を、三佳子は全く気に留めてはいなかった。
 胡蝶の腕を握りしめ、ごめんなさい、ごめんなさいと謝罪の言葉を執拗に口にしている。娘と彼女がどういう生活を送っていたのか、智彦は何も知らない。
 知ろうとしなかったことが、智彦の罪だった。
 自販機でコーヒーを買い、足早に病室へと戻る。

 それまで規則的な鼓動を刻み続けていた心音計が、甲高い音を放っていた。
 聞こえるのは、三佳子の絶叫と、ピーーーーーーーーーという、心臓の停止を告げる音。
 悪い夢を、見ているようだった。

 三佳子と共に葬儀場へと胡蝶を送り届けてから、三佳子の分の喪服を取りに、智彦は一旦家に帰ることになった。
 七年前まで、智彦が暮らしていた家。
 そこは、恐ろしいまでに生活感を感じさせなかった。
 グランドピアノはほこりを被っており、長らく使われていなかったのだろうことが伺い見れる。
 家を出る直前、智彦は胡蝶の部屋を覗き見た。
 智彦が家を出た時と何も変わらない。三佳子の趣味で彩られた、高校一年生の少女の部屋にしては、幾分子供っぽい桃色の部屋。だが一点、違和感を覚える。
 しばらく部屋を眺め、ようやく智彦は合点がいった。
 なくなっているのだ、人形が。狼もキツネも、うさぎも着せ替え人形もいない。
 流石にこの歳になって、人形を愛でる真似はしないかと、智彦は特に気に留めなかった。待たせておいた黒いタクシーに乗り込み、真っ直ぐに葬儀場へと向かう。
 夜中の三時。智彦を乗せるタクシー以外に、道路を通るものはいない。
 人気のない夜の街を眺めながら、智彦は娘との思い出に浸っていた。

 そういえば一度だけ、遊園地へ行ったことがあった。まだ妻を愛していた頃、家族三人で観覧車に乗った。あの時の胡蝶は、かわいさの絶頂にあった。

 思い出すだけで、口角がつり上がってしまう。
 同時に、抱えた三佳子の喪服に透明な滴がこぼれ落ちた。
 しばし、無人の街の中を、車は走り抜けていく。やがて、タクシーの前方に葬儀場が見えた。人里から隔離された、死を象徴する真っ白な建物。

 ――それが、青い炎に包まれていた。赤ではなく、海のような青い色。

 ガスバーナーの炎とよく似た濃青。
 小さな爆発音を立て、葬儀場が崩れていく。
 タクシーは、何事もなかったかのように進行を止めない。目的地へ向かって、一直線に進んでいく。

「――私たちは夢の欠片」

 それは、歌だった。この状況にもかかわらず、運転手は歌を歌っていた。顔は制帽に隠れ、よく見えない。

 水底に沈むあなたの過去
 葬り去られたあなたの未来

「一体なんなんだ! そのふざけた歌をやめろ! 」

 男は聞く耳を持たない。楽しげに、歌を歌う。

 どうか、どうか忘れないで

 炎の海へと沈みながら
 それでも願わずにはいられない

 ああ、私たちのご主人様
 願わくば
 あなたの行く道が、末長く幸せでありますように

 苛立ちから、男の帽子を奪い取る。
 ぞっとするほどに、美しい男だった。
 黒髪に、鋭く尖った目をした男が、勝ち誇った顔をして笑っている。

 それが、智彦の最期の記憶。
 あとはただ、焼かれるだけ。

 * * * * * * * * *  

 私たちは夢の欠片
 水底に沈むあなたの過去
 葬り去られたあなたの未来
 
 どうか、どうか忘れないで

 炎の海へと沈みながら
 それでも願わずにはいられない

 ああ、私たちのご主人様
 願わくば
 あなたの行く道が、末長く幸せでありますように


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