アフタードールズ

3.人形たちの世界

 目が覚めて、最初に鼻を突いたのは、胸焼けがしそうなほどのバニラエッセンスの香り。次いで聞こえてくる柔らかな声。顔にかかった髪を優しく避けていく指先。
 躊躇いがちに触れたかと思えば、目覚めることのない胡蝶に安堵したのか、一度深呼吸すると、壊れ物を扱うかのようにそっと額を撫で始めた。

「大丈夫、大丈夫」

 胡蝶に、というよりは自分に言い聞かすように落とされるたわやかな低い声。軽く身をよじれば、柔らかな羽毛の感触が頬から伝わってきた。

「ゆっくり休んでください。もう誰も、あなたを苦しめることはないのだから」

 まどろみの間で、胡蝶は微かに首をもたげた。
 苦しい? 私が?
 そんなことはない。苦しくなんてなかったはずだ。
 十分に幸せだった。不満を言うなんて、それこそおこがましいことなのだ。
 そんな胡蝶の思考をかき乱すようにして、ヒール特有のカツカツという音を立て、誰かがベッドへと近付いてくる。
 雨の音は、聞こえなかった。

「具合はどう?」

 耳心地の良い、柔らかな声だった。
 鈴の音のように可憐な女性の声が、胡蝶の鼓膜を優しく揺らす。
 声に応え、先ほどまで胡蝶に甘い囁きを続けていた男も笑いを滲ませた。

「ぐっすり眠っていらっしゃいますよ」

「……久しぶり。こんなに穏やかな寝顔」

「ええ、本当に」

 感慨深いといった様子で、男がひそやかに息を吐く。
 額に触れていた指が、頬に落ちる。
 砂糖菓子で出来ているかのように、二人の声はひたすらに慈愛に満ちたものだった。

「お水は、ここに置いておけばいいかしら」

 胡蝶の睫毛が微かに揺れる。
 そのままゆっくりと開いていく瞼に、二人の動きが止まった。

 ベッドサイドに腰掛けているポニーテールの男と、その背後で伺うように胡蝶の顔を覗き込んでいる金髪の女性。作り物のように整った顔が起き上がった胡蝶を瞳に映した瞬間驚き、あるいは歓喜に染まる。

 前者には全く見覚えがなかったが、後者の顔は嫌という程見慣れていた。
 纏う衣服は胡蝶の作ってやったそれとは似ても似つかないが、カールのかかった長い金色の髪、すらりと伸びた細い手足、桃色の目、胸元に取り付けられたアンティーク調の蝶のブローチは、胡蝶の家にある人形「マリア」そのものだ。
 白いエプロンを腰に巻き、膝丈のビリジアンブルーの落ち着いたワンピースを身にまとった女性は、口元を両手で覆い、喜びに打ち震えていた。

 こんな偶然があるものか。
 胡蝶は現実から逃れるように女性から目を逸らし、視線を部屋にめぐらせた。

 率直な感想は、簡素な部屋だった。
 胡蝶が横たわっているベッドを除けば、あるのは水が置かれているサイドテーブルと、男が腰掛けている丸椅子くらいのものだろうか。

 他に何かないものかと天井を見つめれば、簡素な部屋には不釣り合いな少々装飾過多の、それでいて小さめのシャンデリアが飛び込んできた。
 だが、スイッチのようなものは見当たらない。電球式のものではなく、一本一本の蝋燭(ろうそく)に火を灯していく旧式タイプのものらしい。

 ベッドサイドにある窓からは柔らかな陽の光が差し込んでいる。
 胡蝶が眠っていたからなのか、外が明るいからなのか、そのどちらなのかは判別が出来ないが、現在シャンデリアに灯りは灯されてはいなかった。

 ついで、視線を横へとずらしていく。

 アンバーの壁の一角には小さめの絵が掛けられていた。舞台の上に置かれた、黒いグランドピアノの絵。スポットライトに照らされた舞台の上、小さな少女がピアノを弾いていた。
 素敵な絵なのだが、個人的にピアノにはあまりいい思い出がない。
 胡蝶は現実から目を背けるように、すぐさま視線を逸らした

 一通り部屋を眺め終わった後、胡蝶は視線をポニーテールの男の方に移す。

 女性に気を取られていたが、男の方も彼女に引けを取らない輝きを放っていた。
 栗色の髪に、男性にしては細い線、色白の肌、焦げ茶色のベストにフリルのついた白いシャツ、胸元でひときわ存在感を放っている中世の貴族のようなジャボは、おとぎ話の王子様を連想させた。

「あの……」

 声を発した瞬間、止まっていた二人の時間が動き出す。
 先に行動を起こしたのは男の方だった。

「胡蝶!!」

 そう叫んだかと思えば、女性と胡蝶が止める間もなく、椅子から立ち上がった男は勢いよく胡蝶に抱きついてきた。
 ぎゅうぎゅうと遠慮のない力が胡蝶の体を閉じ込める。
 その時胡蝶の脳裏を満たしたのは、羞恥心ではなく純粋な困惑だった。
 そもそもここはどこなのか、この見目麗しい人達は何者なのか。
 なぜ、名前を知っているのか。どうして自分は抱きしめられているのか。

「ああ胡蝶! ずっとあなたをこうしたかった!」

「……え?」

 混乱する胡蝶を置き去りにし、男は一人息を荒げる。興奮を隠そうともせず、目を閉ざし感嘆の息を吐く様は、さながら母に甘える子供のようだ。

「クリス」

 咎めるように、女性が溜息を吐く。
 聞き覚えのある何、胡蝶は眉間に皺を寄せた。
 クリストファー。クリスという愛称といい、胡蝶の家にある狐の人形と同じ名前だ。
 マリアに瓜二つなこの女性といい、偶然が重なり過ぎではないだろうか。
 しかし、今眼前にいるのは茶髪の美青年である。

「胡蝶が困っているわ」

 クリスと呼ばれたポニーテールの男が、恐る恐る腕の中に視線を下ろす。

「あの、離して頂けると、ありがたいんです、けど」

「ああ! 私としたことがすみません。……驚かせてしまいましたか?」

 驚くも何も、何が何だかさっぱり判らない。
 にこやかに目を細め、そっと胡蝶を解放した男はベッドの上で呆然としている胡蝶の手を取り、その場で忠誠を誓う騎士のように膝をついてみせた。

「まずは非礼を謝らせてください。私のご主人様」

 ぎょっと目を見開く。ご主人様? 何のことだか思考が付いていかない。
 少なくとも、この人に膝をつかれるような事をした記憶がないのは確かだ。

「あなたの、じゃなくて私たちの、でしょう?」

「細かいことはいいじゃないですか」

 呆れ混じりのマリアの訂正に、クリスは軽い調子で返事を返す。

(いや、つっこむところはそこじゃないと思うんだけど)

 私のだろうが、私たちのだろうが、ご主人様と呼ばれるような人間ではない。
 私学に通っているとはいえ、そんなに規格外な富豪というわけでもない。
 クラスメイトにはもっと壮絶なお金持ちもいる。

(私は一般人、一般人)

 少なくとも、家に使用人はいない。

「だ、誰かと間違えているんじゃ」

「いいえ、間違いありません。あなたを間違える筈がない」

 逃れようとする腕を強く掴み、クリスは真っ直ぐに胡蝶の瞳を射抜く。

「お帰りなさい、私たちの胡蝶(ごしゅじんさま)」

 にっこりと微笑んでいるクリスとは反対に、ベッドに腰掛ける胡蝶の頬は引き攣っていく。無理に釣り上げた口角は、ぴくりぴくりと小さく痙攣を繰り返していた。
 足元から急激に血の気が引いていく。110、110、誰でもいいから警察を呼んでくれ。これ程スマホを持っていないことを後悔した日があっただろうか。

「ごめんなさい、人違いです」

 冷めた目で否定の言葉を口にした瞬間、クリスの顔が悲痛に歪む。

「胡蝶! 酷いです! この私が分からないだなんて!」

「無理もないと思うわよ。私はともかくとして、あなたはどう見ても別人なんですもの」

 どこか呆れ混じりに、マリアはクリスを鼻で笑う。
 よほどショックを受けたのか、しばし黙り込んでからクリスはよし、と小さく呟いた。
 次の瞬間、ぽんという、なんとも間抜けな音が胡蝶の鼓膜を揺らした。
 ついで白い靄のようなものが胡蝶の視界を覆う。
 ぱちぱちと瞬きを数度繰り返せば、靄の晴れた先、胡蝶の前にあったのは不気味な王子様もどきの美形ではなく、見慣れたふわふわの人形だった。
 二頭身の狐の人形が短い手足を必死に動かし、ベッドの上によじ登ってくる。
 必死に胡蝶に近付こうと歩く度、狐の足元からは柔らかい音がした。
 よちよちと、二頭身の狐の人形が、どうぞ撫でてくださいとばかりに胡蝶の膝に腕をつき見上げてくる様は、なかなか心に響くものがある。

「どうですか? これなら分かりますよね? 人違いじゃないでしょう?」

 言葉に詰まる。確かにこれはクリストファーだ。胡蝶の部屋に置いてある人形。
 嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂いがする、紛れもない胡蝶の人形だ。

 確かに人形の彼らからすれば、持ち主である胡蝶はご主人様なのだろう。

 信じられないとばかりにまじまじとクリスを見つめる。部屋の中に充満する甘いお菓子の香りが現実味を薄れさせていく。狐は尻尾を左右に揺らし、ニコニコと微笑むだけだ。

「その、触っても……?」

 うずうずと湧き上がってくる好奇心を抑えきれない。
 小さな黒い目に宿る光は増し、ピンと伸びた大きな耳がそわそわと動き出す。

「もちろんです!」

 人型の時よりも幾分かトーンの上がった声で、クリスはにこにこと胡蝶に笑いかけた。
 息を飲み、胡蝶は恐る恐るクリスの頭に触れる。
 なるほど、いつもの感触だ。ふわふわのもこもこ。触り慣れた狐の人形。
 ただ尻尾だけが上下に激しく揺れている。
 胡蝶が頭を撫でてやるたび、尻尾がマットレスを打つ、ぽふ、ぽふ、という気の抜ける音がした。

「あー! もうクリスばかり羨ましい! 私のことも構って!」

 それまで黙っていたマリアがクリスを壁に投げつけ、代わりとばかりに胡蝶を後ろから抱きしめてきた。

「ゴフッ」

 壁にぶち当たったクリスが、ずるずると床に落ちていく。
 地面に完全に落下した瞬間、愛らしい狐のぬいぐるみは元の不審者に戻っていた。
 冷静なのかと思っていたが、こっちはこっちでなかなかに弾けた性格をしているようだ。

「その、マリア……さん?」

「まぁ! マリアでいいわ!! そんなに余所余所しくされると傷付くじゃない! やっとこの姿で胡蝶に会えたっていうのに……!」

 マリアに頰ずりをされながら、胡蝶は自分が人形達を大切に思っていたように、人形達も胡蝶を特別な存在だと思ってくれていたことにどこか安堵していた。

 その時不意に胡蝶の脳裏に蘇ったのは、人形たちと話すことができればいいのにという、幼少期の願いだった。
 子供の頃の馬鹿げた願いが現実になった。
 だが、この状況はあまりにも胡蝶にとって都合がよすぎるのではないだろうか。

 見目麗しい人の姿を取り、動く人形たち。
 それだけでなく、ご主人様と異常なまでに慕ってくれている。
 おかしい。こんなのは、あまりにも胡蝶にとって都合が良すぎる。

「ねぇ、マリア」

「なぁに?」

 鼻にかかるような甘えた声で、マリアは愛玩人形にするように胡蝶の頭をなでさする。
 髪に触れる細い指が、無性にくすぐったかった。

「ここは——」

 その時、胡蝶言葉を遮るようにして腹部から間の抜けた音がした。
 低く唸るような音に、いつの間にか起き上がっていたクリスが苦笑をこぼす。

「まぁ、大変! 待っていてね。とっておきのご馳走を用意してあげるから」

 胡蝶の腹部に背後から腕を回していたマリアが、慌てたように身を起こし、部屋を飛び出していくのが視界の隅に映った。
 そういえば、昨夜は何も食べずじまいだったのを思い出す。
 そうだ。買ったばかりの食材を冷蔵庫に入れることなく廊下に落とし、母に酷い言葉をぶつけて、雨のなか行く当てもなく飛び出した。
 それから、確か車に。
 ——そうだ。確かに跳ねられた。

 思い出した瞬間、胡蝶は自分の胸に手を当てていた。
 多量の雨を吸っていたはずの赤紫色の制服は、全くと言っていいほど濡れてはいなかった。
 もしや、ここはあの世なのか。
 それならば、胡蝶にとって都合が良すぎる展開にも納得がいくような気がする。
 ではどうして、空腹を覚える。だが、この状況を夢かあの世以外にどう形容すればいいのか。心臓は激しく脈打ち、焦りから瞳は忙しなく宙を泳ぐ。
 一度考えに浸ってしまえば、クリスの発言も耳には入らなかった。

「胡蝶?」

 肩に触れてきた指先に、胡蝶の肩が大きく揺れた。

「……あ、ごめん。少し、考え事をしていて」

 強張った笑みを返しながら、胡蝶は妙な胸騒ぎを感じていた。
 それまで笑顔を貫いていたクリスの目に、剣呑な色が覗いている事にも気付かずに、顎に手を当てたまま、しばし胡蝶は思いふける。

「何も心配することはないんです」

 顔を上げれば、不穏な光を宿した鋭い眼と視線がかち合う。
 二頭身の狐の姿からは想像もつかない顔をして、男は嗤った。

「あなたはここにいればいい。ここにいれば、決して誰もあなたも傷つけません。私たちがそんなことは許さない。……あなたには、いつだって私達がついている。今までも、そしてこれからも」

 身をかがめ、クリスは自然な動作で胡蝶の髪のひとふさに唇を寄せる。

「そうでしょう?」

 こちらを伺うように見上げてくる黒色に映る胡蝶の顔は、強く口元を引き結んでいた。
 胡蝶がやっとの事で視線を逸らしたのを合図に、クリスはそっと手を離す。
 胸の前で一度手を叩き、嬉しそうに白い歯を見せるさまは、胡蝶のよく知る狐のクリストファーに重なって見えた。

「食事が済んだら、三人で出かけましょう。胡蝶も外がどうなっているか気になるでしょうし、ああ、それがいい」

 無理に明るい調子を作っているように見えた。
 人形と思って侮っていてはきっと痛い目を見る。
 胡蝶は深く息を吸い込み、力強くクリスを睨み付けた。

「ねぇ、クリス」

「はい、なんでしょう」

「……ここは、どこなの」

 そこだけは、はっきりさせておかなければならない。
 死んだのか、それとも夢を見ているのか。
 心臓の前で片手を握りしめ、胡蝶は深く息を吸い込んだ。
 窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえて来る。柔らかな陽の光が、胡蝶の前に立つクリスの小綺麗な顔を柔らかく照らし出していた。

「地獄と言ったら、あなたは信じますか?」

 疑問に疑問で返した男は、正に人形のような完璧な笑みを形作っている。

 おそらくクリスは、今胡蝶が「家に帰りたい」と思っていないことを承知の上で、ものを言っている。
 彼が本当に胡蝶の人形であるのだとすれば、全てを知っている筈だ。
 胡蝶の好きなもの、嫌いなもの、嬉しかったこと、そして勿論、嫌だったことも、現在も過去過去も、文字通り全てを。

「冗談ですよ! 冗談! 私達の胡蝶が地獄に落ちる訳ないじゃないですか!」

 瞬きを数度繰り返した時、クリスは元の温和な笑みに戻っていた。
 改まった様子で右手を胸に当て、クリスは深々と礼をしてみせる。

「では、改めまして。——おかえりなさい、私たちのご主人様。そしてようこそ、人形の世界へ」

「人形の……世界?」

 自身の言葉を呆然と反芻する胡蝶に、クリスは上機嫌だ。
 とびっきりのいたずらが成功したとばかりに、子供のように喜んでみせる。

「あなたからすれば一応、異世界ということになりますね。ここは人間(もちぬし)を想う人形達の心が生み出した世界。どこにも属すことのない、切り離された場所です」

 人形の世界。
 だがあの時、胡蝶は確かに車にはねられた筈だ。
 忘れられる筈がない。体から急激に力が抜けていくあの感覚。ああ、これが死ぬということか、と直感的に死を悟らされる急激な記憶の奔流。炎の海の中を、まわりながら、ゆっくりとおちていく。それなのに。

「異世界ということは……私はまだ、死んで……ない?」

「残念ながら、そうではありません」

 クリスの眉が下げられる。期待通りの答えを返せないことに、男は少なからず罪悪感を感じているようだった。

「現実のあなたは既に絶命している。死んでしまったあなたの魂は、本来ならそのまま跡形もなく消えてしまうところだった。でも私たちは、それを許せなかった。……だから、ここに招いたんです」

 美丈夫は儚げに微笑んでみせる。

「言ったでしょう? ここは人形の世界。あの世と現世の境界線。正確には、人形たちが持ち主を想う気持ちが作り出した、主人のための理想郷です。ここでなら、あなたは今まで通り生きることが出来る。いいえ、それどころか永遠に老いることもない。……ですが」

 クリスの声のトーンが下がる。

「この世界から出て行ってしまえば」

「私は……死ぬ」

「ご名答! 流石は私たちの胡蝶!」

 要するに、実質的に胡蝶は死んでいる、ということらしい。
 魂の消滅か、一生ここで暮らすか。究極の二択である。

 シンバルを持った猿のおもちゃのように、クリスが激しく両手を叩く。過剰な反応に辟易しながら、胡蝶は乾いた笑みをこぼした。
 よくもそこまで過敏になれるものだ。
 いくら彼が胡蝶の人形だからといって、そこまで人形は持ち主に傾倒するものなのだろうか。
 クリスとマリアと話が出来ること、それ自体は嬉しい。だが、彼らの胡蝶への崇拝ぶりは少々過激だ。
 好かれることは嬉しい。
 だが、ものには限度というものがある。

 そんな時、不意に甘い香りに混じってクリームシチューの芳香がした。

「胡蝶~! お待たせ!」

 紫色の蝶の柄の持ち手のついたおたまを持ち、マリアが扉の隙間から顔を覗かせる。

「さぁ、この話はもうおしまいにして、今は食事を楽しみましょう」

 ポニーテールを翻し、控えめにクリスが左手を差し出す。胡散臭いほどまばゆい笑顔をまじまじと見つめ、胡蝶はしばし腕を取ることを躊躇った。

 ここは、異世界という名の夢の国。ああ、なんて都合がいい。

 都合が良すぎて吐き気がする。

 仮定の話ではあるが、もし現実に戻る方法があったとしても、飛び出してきた手前、今すぐに帰りたいとは到底思えなかった。

 悪いとは思っているが、今帰ったところで母が喜んでくれるとは到底思えない。

 邪魔者がいなくなった、説得する手間も省けた、これでやっと、愛する人と幸せになれる。そんな風にすら考えていそうだ。
 そうでなくとも、お互い気持ちを整理する必要がある筈だ。母も、胡蝶も。

 それに比べ、ここはどうだろう。二人は明確に胡蝶を必要としてくれている。
 そうだ。どうせ戻れはしないのだから、もう少し楽しんだってバチは当たるまい。
 たとえクリスが嘘をついていたとしても、現状この男の言う通りにするしか道はないのだ。

(だから、私は悪くない)

 罪悪感に微かに痛む胸を押さえながら、静かに狐の人形の腕に自身のそれを重ね、胡蝶はぎこちなく微笑んだ。

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