アフタードールズ
4.人形たちの世界2
クリスに誘われるがまま、木製の扉の向こうへと足を踏み出す。
カントリーハウス、とでも形容すれば良いのだろうか。どこか暖かな雰囲気を感じさせる木造りの小さな家。階段は、見当たらなかった。一歩踏み出すことに、床板が柔らかく軋む音がする。廊下に飾られた額縁にはホコリ一つ付着していない。
食堂へと足を踏み入れた刹那、より一層ホワイトソースの匂いが濃厚になる。再度唸り声を上げた、わかりやすい自身の腹部に苦笑いを禁じえない。
半分死んでいるようなものにも関わらず体は空腹を覚えるというのだから、変な話である。
アンバーのダイニングテーブルの上には既に食器類が並べたてられている。
誰かに料理を作ってもらうのは、随分と久しぶりの事だった。
「本当はもっと手の込んだものが作りたかったのだけれど……。誰かさんが急に呼び出してくれたおかげで、こんなものしか用意できなくって……」
ジト目のマリアが忌々しげに、ちょうど胡蝶の向かいの席に座ろうとしていたクリスを睨みつける。 誰かさんで、の部分をやたらと強調していたのはきっと気のせいではない。
「なんですか、そのもの言いたげな目は」
「べっつにぃ? 自分の胸に聞いてみれば分かるんじゃない?」
口元に手を当て魔女のように微笑んだマリアは、それだけ言うと駆け足気味に厨房へと戻って行く。再度ダイニングに姿を現したマリアの手には、これまた蝶のあしらわれたの鍋つかみがはめられていた。
白地に、これまた蝶柄のなべ敷きの上に鍋を置き、マリアは木製の杯にシチューを注いでいった。
「ごめんなさいね。こんなものしか用意できなくて」
胡蝶の前に器を置き、マリアは再度溜息を吐いた。
ちらり、と差し出された器の中身を覗き見る。
鼻をくすぐるホワイトソースの中に混じる、シーフードの芳香。純白の海を泳ぐ帆立貝と野菜たち。結果的に昨日の晩御飯を抜きにされた胡蝶からすれば、途方もないご馳走に映った。
少なくともこんなもの、と卑下されるようなものではない。
「ううん、とっても美味しそう」
胡蝶の微笑みに、マリアの顔にはあからさまな安堵が滲む。
胡蝶の向かいの席に腰掛けている男は頬杖を吐き、どこか不満気に二人を睨みつけていた。
「食べてもいい?」
真っ赤なリボンでまとめられた黒いツインテールが左右に揺れる。
笑いを堪えながら、胡蝶はマリアに伺いを立てた。
「ええ、勿論!」
ウッドスプーンを手に取り、ゆっくりと口へ運んでいく。二人は固唾をのんで見守っていた。具材を慎重に嚙み砕き、ゆっくりと奥へ奥へと流し込んでいく。
「その、口に合わない……?」
一口食べ固まった主人に、着せ替え人形は伺いを立てる。
問いかけるも、返答はない。
やはり残り物ではまずかっただろうか、そうあからさまにマリアがうろたえ始めた頃、胡蝶はようやく言葉を返すことが出来た。
「……美味しい、よ」
何年ぶりになるか分からない。本当に、最後に両親と食卓を囲んだはいつだっただろうか。こんな風に団欒した思い出など、いくら見つけようとしても記憶の海の奥底へと沈んだまま。
決して浮かび上がることのないまま、水底で朽ち果てる。
感情の奔流をかき消そうと無心で手を動かし続けていく。
口の中を満たしていく暖かさに胸が締め付けられた。
「とっても、美味しい」
奥へ奥へと掻き込んでいく。きっと、とんでもない顔をしていたに違いない。
何かもの言いたげなマリアを、クリスは軽く片腕を上げ、無言の圧で押し留めていた。
「それは良かった」
顎の下で腕を組んだクリスが、向かいの席に腰掛ける胡蝶を柔らかく射抜く。
「では、私達も頂きましょうか」
「そ、そうね!」
「……その、二人も食べられるの?」
スプーンを手に、料理を口へと運ぼうとしていた人形たちの動きが止まる。
主人の疑問に、クリスはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「もちろん、可能ですよ。この世界では基本的に食べなくても死ぬことはありませんが、不思議なことに空腹は感じるんですよ」
「」
味気ないじゃない? それにせっかく人間の体があるんだもの、どうせなら食べなきゃ損だと思わない?」
「まあ、そういうわけなので、私たちの心配は無用ですよ」
「優しい胡蝶が黙り込んでしまう程にまずいのかと思っていましたが、なかなかいけますね」
「まぁ! 相変わらず失礼な狐! 」
望んでも叶わなかったもの。決して届かなかったもの。皆勤賞だろうが、模試でいい成績を取ろうが、胡蝶の現実は変わらなかった。両親にとって重要だったのは思春期の面倒な娘などではなく、いつだって世間体と業績。胡蝶なんかはそこら辺に飛んでいる虫と同じ。頑張ったところで、所詮は悪あがき。
あんなにも頑張ってきたのに手に入らなかったものが、ここではいとも簡単に手に入る。
胡蝶と同じように、二人も料理を口にしていた。
人形の世界では普通に食事ができるらしい。
「あなたの料理なんかより、胡蝶が入れてくれた紅茶の方が百倍美味しい」
ちらりと視線を送られる。確かに、人形たちには何度も紅茶を入れてやった事がある。
だがそれは、ごっこ遊びの中での話だ。胡蝶のいる現実では当然人形は食事をすることは叶わず、ままごとの中、本当に液体を注いでやった訳ではない。あれは胡蝶の中での設定。あくまで妄想に過ぎなかった筈だ。
「キザなあなたらしい台詞ですこと」
マリアがわざとらしく肩をすくめてみせる。嘲笑を軽く受け流し、クリスはあくまでも微笑みを保ち続けていた。心地よい嫌味の応酬を背景に、胡蝶はすきっ腹を満たそうと無心でシチューを掻き込んでいく。
「……ごちそうさまでした」
すっかり空になった器を前に、両手を合わせ軽く礼をする。
食べ終わった食器を片付けようとするマリアを押しとどめ、胡蝶は勢いよく椅子から立ち上がった。二人の制止の言葉に一切耳を傾けず、胡蝶はそそくさと三人分の食器をまとめ、駆け足気味に厨房へと逃げ込む。それを追うようにしてマリアも後に続いた。
キッチンの壁に取り付けられた小窓からは優しい陽の光が差し込み、カントリー調の落ち着いたアンバーの壁を照らし出す。胡蝶の横顔に陽光が反射し、遠巻きに胡蝶を見守っている端正な顔には焦りがにじんでいた。
「胡蝶、あなたは座っていてくれれば」
「これくらいさせてよ」
食器が擦れる音が一瞬止む。誰かに給仕してもらうだけでもむず痒いのに、すべてを任せきりにするなんてとても耐えられない。
「……シチュー、とっても美味しかった」
止めても無駄だと悟ったのか、マリアは呆れたように溜息を吐いた。主人の気質を思い出したらしい。
「貸して」
それまで胡蝶の背後に立っていたマリアが横並びになる。いつの間にか、マリアの腰には白いエプロンが取り付けられていた。温和な笑みを浮かべながら、白くすべやかな指が差し出される。もう片方の腕には純白の布が握られていた。
「胡蝶の好意は嬉しいけれど、お客様に全部任せっきりっていうのも悪いじゃない」
困り顔で飛ばされたウインクすらも眩しい。小さく頷き、胡蝶はちょうど洗い終えたばかりの杯を差し出した。
水の音がする。それ以外には何もない。時折思い出したかのように食器とスポンジが擦れる音がするだけで、しばし小さな世界は柔らかな沈黙に満ちていた。
母親、というのは本来はこういうものなのだろうかと、洗い物する腕を止めずにマリアの横顔を盗み見る。今にも鼻歌を歌いだしそうに上機嫌なマリアを見ていると、こちらまで心が温かくなってくる。ガラスの向こう、鳥のさえずりが聞こえた。
「さっきのあれだけど」
唐突にマリアが口を開く。
「勿論、本当に飲んだことはないのよ?」
ああ、と小さく声を発した。どうやら先程のクリスの事を言っているらしい。最後の器をマリアに渡し、壁に吊るされたタオルで丁寧に手のひらの水分をぬぐっていく。
「でも、そうね」
エプロンを外す横顔が眩しげに目を細める。金色がキラキラと輝いていた。
「いつか、本当に入れて頂戴ね。……約束よ?」
「……うん」
目配せに微笑みを返し、胡蝶はゆっくりと頷く。マリアは息を呑み、しばし固まった。かと思えば
「胡蝶ぅぅっ!!」
名を呼びながら、押し倒さんばかりの勢いで抱きついてくる。
ろくな抵抗もできずにその場に縫い付けられ、忙しなく目を動かす様はさぞかし滑稽だろう。
体格は立派な大人だというのに、クリスもマリアも行動がどこか子供じみている。それこそ、胡蝶なんかよりよっぽど幼い。本人は一切気にしていないようだが、先ほどから豊満な胸のせいで息が苦しい。羞恥心だとか、そういう感情はないのだろうか。
人間の姿をしていながら、彼女らの中身は確かに人形だった。
「そうだ! 街に出た時に茶葉を買いましょう! それに合わせてとっておきのお茶菓子を作ってあげる!」
胡蝶が息苦しさを訴えるより前に、マリアが体を離してくれたことが唯一の救いだろう。胡蝶の両肩を掴み、マリアは無垢な笑みを浮かべた。
「あははは」と乾いた笑みが漏れ出てしまうが、気にする素振りはない。紅茶といえば、一つ聞いておきたいことがあった。
「ねぇ、マリア」
「うん? 何かしら」
「クロとコジローは、いないの?」
クリスと比べると、マリアは判りやすい。本人は隠しているつもりかもしれないが、肩に置かれた手のひらは一度大きく揺れ、動揺があからさまに伝わってきた。その分かりやすさに安堵する。そこには触れて欲しくなかったとでも言いたげに、マリアは胡蝶から視線を逸らした。コジロー、クリス、クロ、マリア。胡蝶が幼少期からずっと大事にしてきた大切な人形達。
多少の差はあったかもしれないが、胡蝶は全員を平等に愛してきたつもりだった。それなのに、この二人しかいない、というのもおかしな話だ。
「……二人とも、お仕事が忙しいんですって」
「お仕事……?」
一瞬の沈黙の後、ふてくされ気味にこぼされた、人形の世界というファンタジーな単語とは正反対の言葉に、胡蝶は思わず眉をひそめた。やはり、クロとコジローもこの世界に存在するらしい。それにしても、仕事とは何をしているのか。さっぱり見当がつかなかった。
「――胡蝶」
肩に置かれていた腕が逃げるように退けられる。マリアの表情は、硬い。
「すみませんが、どうしても外せない用が出来てしまいました。……非常に心苦しいのですが、一緒に出かけるのはまたの機会に」
厨房の入口から顔をのぞかせたクリスは、悩ましげに溜息を吐いた。鳥の鳴き声が、止む。
「……薄情な人形を許していただけますか?」
膝をつき、クリスは大げさな身振り手振りを付け、わざとらしく嘆いてみせた。胡蝶の手を両手でしっかりと握りしめ、無様にも懇願してみせる。率直に言うと、ここまでされると嬉しいを通り越して、鬱陶しい。
こんな風に男をかしずかせて喜ぶ趣味は、あいにくだが持ち合わせていない。ツインテールがぎこちなく揺れるのを確認し、クリスは軽やかな身のこなしで立ち上がった。
やっと解放されると安堵したのもつかの間、左手に触れた柔らかな唇の感触に息を飲む。胡蝶の動揺を知ってか知らずか、狐は艶やかに笑うだけだ。
「この埋め合わせは、いつか必ず」
名残惜しげに離された腕を下げることも忘れ、胡蝶はクリスが立ち去るまでその場から動くことができなかった。
「何が「埋め合わせは必ず~」よ。あぁ、もう。相変わらず胡散臭い狐。いなくなって清々しちゃう!」
玄関扉が閉まる音が聞こえた瞬間、マリアの肩があからさまに降りる。仰々しく伸びをしてみせるマリアを横目に、胡蝶はぼそりと呟きを零した。
「……嫌いなの?」
「え? 」
ぽかん、とマリアの顔に動揺が滲む。何を言っているのか分からない、そんな顔だ。
「クリスのこと」
「ああ!」
ようやく合点がいったのか、マリアが手を打つ。
「別に、嫌いなわけじゃないわ」
憂いを帯びた横顔が、そっと溜息を吐く。胸元のブローチが太陽に照らされ輝いていた。
「なんていうか……うまく言えないけど、危なっかしいのよね。クリスって」
マリアの主張に、胡蝶は小さく頷いた。言葉遣いも行動も、何も問題ない。それなのに、恐ろしい。
彼の好意は本物だ、と胡蝶は思っている。胡蝶の人形だ、ずっとこうしたかった、それも彼の真意なのであろう。なのに、どこか薄ら寒いのだ。あの黒い目にまっすぐ見つめられると、嫌な意味で、ゾクゾクする。深い闇の底に引きずり込まれそうな、そんなおぞましい感覚を覚えた。
「……でも、一緒に暮らしてるんでしょう?」
「誰が!?」
「あなたと、クリスが」
「違う違う」
「じゃあ、ここは誰の……? 」
「あの馬鹿狐よ。……もう。こんなの、私の趣味じゃないわ」
「……私は、かわいいと思うけど」
胡蝶の知る限り、こんな家は現実では見たことがない。少なくとも、クリス本人よりはよほど可愛らしいのではないか。この家を一言で形容するとすれば、ドールハウス。「緑の屋根の小さなお家」とでもそれらしい商品名がつけられて、玩具屋の店頭で販売されていそうだ。もっとも、この家の屋根の色など知りはしないが。
「あら、外はもっと素敵なのよ? それこそ、こんな辛気臭い狐の家なんか霞んじゃうくらいに」
口元に手を当てたマリアの顔は輝いている。いいことを思いついたとばかりに息を弾ませ、その場で軽くターンする、などという子供じみた所作ですら絵になるというのだから、美人はやはり役得だ。
外の世界。人形の街とはどんなところなのだろうか。人形の世界というくらいだ、当然、住人は人形なのだろう。やはり、すべての人形が人の姿をしているのだろうか。それとも、人形の姿のまま暮らしているものもいるのだろうか。
「そうよ! こんなところで立ち話なんてしている場合じゃないわ!」
クリスには悪いけど、と言葉を続け、マリアは胡蝶の両腕をしっかりと握りしめる。
「せっかくの機会なんですもの。二人っきりでお買い物を楽しまなくっちゃ!」
たたらを踏む胡蝶を置き去りにし、マリアの妄想は膨らんでいくばかり。買い物を楽しむと言われても、家に財布もスマホも何もかも、文字通り全て置いてきてしまった。それ以前に、ここで人間の通貨は通用するのだろうか。
「でも私、お金が」
ウィンドウショッピングだけで十分。買ってもらおうなんて気は更々ない。人形達の生活を、ほんの少し覗き見れるだけで満足。いくら彼女たちが胡蝶の人形、つまるところ人間の世界での所有品だからといって、この世界での人形達の持ち物が全て持ち主のものか、と言われれば、胡蝶はそれに否と返すだろう。
しかし、マリアの反応といえば、呆気にとられた様子で固まるだけだ。長い睫毛が瞬きをする度、数度音を立てた気がした。
「そういえば、人間はお金で買い物をするんだったわね」
しばしの沈黙の後、マリアは小声でそんな呟きを零した。
今度は胡蝶が呆気にとられる番だった。
「お金が……ないの?」
「基本的に私たちは、物々交換で済ませてしまうのよ」
胡蝶の脳裏に浮かんだのは、中学の時歴史の教科書で見た弥生時代の市場、のイラストだった。白い服で身を包んだ人々が、海辺にある広場のような場所で、肉や魚などの食料と、どんぐりで作られたアクセサリー、もしくは弥生土器と交換している、そんな絵だった気がする。
「品物と品物を交換するのがお店とかでは主だけれど……。私の場合はステージで素敵な歌と踊りを届ける代わりに、服とか、食料を貰っているの。労働の代わりに、物を貰っている、って感じかしらねぇ」
そんな持ち主の気心など知らぬとばかりにマリアは身をかがめ、胡蝶の耳元に唇を寄せる。
「これでも私、「歌姫」なんだから」
忘れるはずもない、胡蝶の中での設定。コジローは騎士、クロは探偵、マリアは歌姫、クリスは王子様。
そこで納得がいった。先程までのクリスの振る舞い、あれも全て、胡蝶の設定の賜物、ということらしい。自分でもなんて恥ずかしい設定をつけてしまったものかと、今更頭を抱えたところでどうにかなる問題でもない。
王子様の登場で濁されてしまったが、クロとコジローも、胡蝶の設定に忠実なのだろう。となると、クロが用事で出かけているというのもあながち嘘ではないのかもしれない。コジローは、何をしているのだろうか。騎士という言葉から連想出来るものといえば――
(……馬?)
考えた傍から馬鹿らしくなってくる。苦笑いしか出ない。乗馬のコーチでもやっているというのか。
さすがにそれは滑稽すぎる。自分の貧困な想像力が心底憎たらしい。ここは大人しく、またあとで聞いてみるとしよう。幸い、しばらくクリスが帰ってくる気配もない。
そういえば、王子様ことクリスは何をして生計を立てているのだろうか。かっこいいだけで物を貰える訳でもあるまいし。
「さ、立ち話はもうおしまい」
ぼうっとしていると、マリアに背を押されてしまった。
「私ね、どうしてもあなたを連れて行きたい服屋さんがあるのよ!! その制服、とっても似合っているけれど女の子ですもの……、ね? もっと着飾らなくっちゃ勿体ないわ!」
促されるまま玄関まで連れてこられる。抵抗しようとしても無駄。ぶつくさと、マリアは独り言を永遠と続けていた。歌姫の中の空想は留まることを知らない。
ワンピースのポケットから取り出した黒ぶちのメガネをかけ、歌姫は思わせぶりに目配せする。コートハンガーに掛けられていた薄桃色のカヌティエを目深にかぶり、シャネルバッグを持った着せ替え人形は、浮き足立って玄関扉を開ける。
暖かな風が胡蝶の黒いツインテールを優しく揺らした。
扉の外に広がるのは、一面の青空。雲ひとつない青空だった。
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