アフタードールズ

6.歌姫と迷子

「……本当に、羨ましいです。こんなにも素敵なご主人様がいらっしゃるだなんて」

 女の目の色が変わる。羨ましい、ではなく恨めしい。
 代われるものなら代わりたい。私だって、その場所にいたい。
 その気持ちは分からなくはない。誰だってこんな美人に抱きしめられて悪い気はしない。だが、彼女の羨望が向けられる先は胡蝶ではなく、マリアの方だった。
 だから、純粋に驚いた。どうして胡蝶のような平凡な容姿の娘を望むのか。それが胡蝶には皆目分からなかった。
 代わりたいのなら代わりたい。手に入るものなら手に入れたい。
 女の瞳の奥に、微かに赤い色が見えた。ここに来る直前に見たものとよく似た、深紅色の焔。青に混じって微かに覗いているそれに、胡蝶はしばし 見入っていた。

「あげないわよ。この子は、「私の」ご主人様なんだから」

 胡蝶を抱きしめる腕が強まった。 視界を遮るようにして当てられた柔らかな掌の感触に、胡蝶はようやく自分が怯えていたことに気が付いた。
 マリアの口調には鋭さが混じっている。

「大丈夫よ」

 しかし次に掌が離された時には、マリアは元の温和な声音を発していた。
 下から見上げた顔にも、穏やかな微笑みが浮かんでいる。いつものマリアの顔、だった。

「ほんの少しの辛抱じゃない。あなたもすぐに、自分のご主人様に会えるわよ」

「……そう、ですね」

 その言葉を皮切りに、女性の瞳の中に宿っていた炎はすっと影を潜めた。

「私ったら、大切なご主人様がありながら他の人形(ひとさま)のご主人様に憧れるなんて、なんて野蛮だったんでしょう!」

「まぁまぁ。そう自分を責めるもんじゃないわ。……私だって、胡蝶に自分から触れられなかった時は、どれ程もどかしかったか」

 一瞬、マリアの視線が腕の中の胡蝶に落とされる。
 胡蝶が願うまでもなく、かねてより人形達は自分の意思をきちんと持っていたらしい。主人が人形を思う気持ちと同様に、人形も主人を愛している。
 少なくとも、人間の世界で動けないことをもどかしく感じるほどには。
 その事実を改めて見せつけられ、胡蝶は少しむず痒かった。

「それで、頼んでおいた品物のことなんだけど」

「ああ、そうでした! すぐにお持ちいたしますので、奥にある試着室までお越しいただけますか?」

 女性に促されるまま、マリアと二人奥へと伸びている廊下を進んでいく。先ほどから見えていたこの道が、試着室へと通じる道だったらしい。
 黒い壁に取り付けられたランタンの灯りが、二人の進路を照らし出す。四角い硝子の 箱の中で、ゆらゆらと青い光が輝いている。

「一番の試着室でお待ちください」

「ありがとう」

 マリアの軽い会釈を合図に、女性は来た道を引き返していく。
 彼女と反対方向にマリアと共に歩いていけば、試着室、というよりはピアノのレッスン室程度の小さな部屋が三つ並んでいる場所にたどり着いた。
 黒い扉を開けたマリアに促されるまま、胡蝶はおとなしく一番の部屋に入る。扉側の壁以外は一面鏡で覆われおり、後ろ姿までをきちんと確認できるようになっていた。
 待つことを想定してか、部屋の中には一人がけの赤いソファーと、小さなローテーブルも用意されている。

「心配しなくても大丈夫よ。胡蝶の好みは、ちゃーんと分かっているから」

 そう言い残し、マリアは試着室の扉を閉めた。小さな部屋の中、胡蝶一人が取り残される。マリアと入れ替わるような形で、小さなノック音が聞こえた。

「ど、どうぞ」

 扉を開けたのは、先程の女性店員だった。
 胸元には大切そうに、大小の黒い箱を二つほど抱えている。

「マリア様、ずっとこの服をお渡しできる日を楽しみにしていたんですよ」

 箱を慎重に手渡しながら、店員は意味深にはにかんで見せた。なんだかとても、むず痒い。

 いたずらっ子のような笑みを最後に、女性店員は部屋を後にした。
 ひとまずは、ローテーブルの上に二つの箱を置く。どちらから開けようか迷ったが、まずは小さい方の箱の蓋に手をかけることにした。このサイズであれば、おそらく入っているのは靴だろう。靴屋に積まれているそれと、よく似たものだ。
 予想通り、箱の中身は靴だった。金色のベルトがついた、黒のローヒール。エナメルが蝋燭の光に照らされ、艶やかに輝いていた。
 ついで、もう一つの箱に視線を移す。音楽の授業で見せられた、レーザーディスクかレコードの箱を彷彿とさせるものだった。ただし、底はそれらよりずっと深い。かなり大きな重箱、という印象を抱いた。
 そっと深く被せられた黒い蓋を持ち上げていく。まず目に付いたのは、フリルのついた白いハイソックスだった。黒い仕切り板でその下は覆われており、肝心の服はまだ見えない。
 靴下を横に置き、今度は仕切板に手を掛ける。ゆっくりと持ち上げていけば、板の下から姿を現したのは、青紫色のワンピースだった。青と赤の中間のような色合い。
 胸元には大きめの白いリボンが取り付けられているが、華美過ぎない。フリルをあしらい、可愛らしさを前面に押し出したものではあるが、全体的にはすっきりとまとまった印象となっており、あまり着ることに抵抗感はなかった。
 
「やっぱり私の見立てた通り! よく似合っているわ!」

 試着室の扉を開け、自身の見立てた服を着た主人(こちょう)を見たマリアは、胸の前で両手を握りしめ、瞳を宝石のように輝かせた。
 マリアが用意してくれた服は、胡蝶にぴったりだった。服にも靴にも、サイズが書かれていないあたり、おそらくこれは特注品だろう。本当に、胡蝶の好みをよく理解しているらしい。
 ふんわりと、ほのかに膨らんだスカートの裾が実に愛らしい。
 こんな服を着ていると、まるで自分も人形たちの一員になったような気がしてくる。着せ替え人形に着せ替えられる、というのは実に奇妙な感覚だった。

「どう? 胡蝶、気に入ってくれた?」

 こくりと頷く。

「うん。とっても」

「まぁ、とてもお似合いです!」

 マリアの後ろから顔を覗かせた店員も、実に満足げだ。

「やっぱり、あなたの腕は確かね」

「歌姫から直々にお褒めの言葉を頂けるだなんて……! 光栄です!」

 感極まっている店員に、マリアはシャネルバッグから取り出した一枚の紙を取り出した。お金はない、と言っていたので金銭の類ではないのだろうが、その紙を受け取った店員は喜びに打ち震えていた。

「よろしいんですか! こんなにも良い席を……!」

 どうやら、マリアが渡したのはコンサートのチケットだったらしい。

「良いの良いの。またお願いするわね」

 どうもこれが、マリアにとってはお金の代わり、らしい。チケットを貰っただけで泣いて喜ぶとは、マリアのスター発言はあながち嘘ではなかったらしい。それとも、この女性が単にマリアの熱狂的なファン、なだけだろうか。

「ああ、そうだ! あちらの服は、どう致しましょうか? 不要なのでしたら、こちらで処分致しますが……」

「ですって。胡蝶、どうする?」

 二人の視線は、綺麗にソファーの上に折りたたまれた胡蝶の制服に注がれていた。

「……持って、帰ります」

 捨ててしまうのは、どうしても抵抗があった。おかしな話だ。クリスの話を信じるのならば、もう二度と現実には、人間の世界には帰れない。母と会うことも、学校に行くこともない。それなのに、どうしても今すぐにこれを手放してしまうことは出来なかった。

「胡蝶なら、そう言うと思っていたわ」

 マリアは少しだけ、眉を下げた。

「では、お包みしておきますね。ああ、こちらの箱の方は」

「うーん、かさばっちゃうし、捨てておいてくれる?」

「分かりました。では、少しだけお待ち下さい。何でしたら、売り場の方をご覧になられますか? 」

 胡蝶はマリアの顔を伺い見た。返ってきたのは柔らかな微笑み。行っていい、ということらしい。

「では、売り場の方にお荷物、お持ち致しますね」

「ええ、お願い」

 店員に背を向け、元来た道を引き返していく。
 先程まで誰もいなかった売り場には、数人の女性客がいた。彼女らは品物を吟味していたが、店の奥から現れたマリアに気付くと、途端、羨望の眼差しが集中した。だが、近付いてこようとはしない。ちらりちらり、と戸惑いがちに胡蝶とマリアを交互に見ては、感嘆の息を吐く。

「この店が好きなのは、節度を弁(わきま)えているから」

 近場にあった桃色のワンピースを手に取り、胡蝶の体にあてがいながら、マリアがぼそりと呟く。

「うーん、これはちょっと違うわねぇ」

 首をかしげ、マリアはワンピースを胡蝶の体から離した。丁寧に服をハンガーにかけ直しているマリアを窺い見る。

「弁えているって?」

「……この店、結構私みたいな立場の人形が多く利用するのよ」

 だから、窓も扉もすべてふさがれ、中が見えないようになっているらしい。納得がいった。

「ここに来るお客さんは、分かっているの。今はプライベートだから、話しかけちゃいけないんだ、って」

「だから、帽子もメガネもいらない?」

「そういうこと。あんなの、本当は邪魔なだけなのよ」

「……ごめん」

 きょとん、とマリアの大きな目が見開かれる。そんな間抜けた顔ですら見惚れてしまうほどなのだから、美人というのは役得だと思う。

「え? どうして胡蝶が謝るのよ」

「だって、私がつけた設定のせいなんでしょう。……その」

「私が、「歌姫」であること?」

 ゆっくりと首を縦に振る。

「マリアがこんな目に会うなんて思わなくて。それに、現実にこうやって、マリアと会うことが出来るなんて思わなかったから……」

 考えなしに付けてしまったことに、申し訳なさを覚える。マリアは主人の謝罪を、穏やかな顔で受け流すだけだ。胸元のブローチを優しく撫でながら、まっすぐに胡蝶の瞳を射抜く。薄桃色の目が、キラキラと輝いていた。

「優しいのね、胡蝶は」

 困惑する胡蝶を諭すように、マリアは少しだけ身を屈めた。

「私は十分幸せよ。歌姫でいることは、そりゃ、ちょっとは面倒だなって思わない日がない訳じゃないけど……。それでも、私は歌うことが好き。皆を楽しませることが好き。それに、ちやほやされて、悪い気はしないじゃない? ……あ」

 そこまで言って、マリアは言葉に詰まった。急に慌てたように顔を赤らめ、手をじたばたと動かし釈明するマリアは、小綺麗ではなかったが、とても好ましく、純粋に可愛い、と思えた。

「で、でも私の一番は胡蝶なのよ!? 私は確かにスターかもしれないけど、胡蝶の人形であるっていう事実は変わらなくって、だからその……。要するに、私が言いたいのは!」

「お待たせ致しました~」

 マリアがハッとしたように肩を揺らす。
 ごほん、と咳払いをし、平静を装ってみせるマリアに、胡蝶は笑いを噛み殺すのに必死だった。

「ありがとう」

 奪い取るようにして店員の手から黒い紙袋を受け取ると、マリアはそそくさと扉の方に向かって行ってしまった。まだ、ほんのりと顔色が赤い。

「あ! お待ちください! マリア様!」

 店員が呼び止めるのも聞かずに、扉を開けてしまう。

「マリア!」

 胡蝶の必死の呼びかけに惚けた顔をしたマリアが振り向いた時には、既に手遅れだった。扉は大きく開いてしまっており、素顔を晒した歌姫に、民衆が黙っている筈がない。

「……あ、はは。……あー、やっちゃった」

 引き攣った頰が、そんな苦言を漏らす。だが、どんなにマリアが平穏を、胡蝶との穏やかなショッピングを望んだところで、人形たちがおとなしくなってくれる訳でもない。
 店員の腕の中に収められたカヌティエと黒ぶちの眼鏡は、寂しそうに持ち主の姿を眺めているだけだ。

「歌姫(デーィヴァ)だ!!」

 それまで呆然と階段の上に立ち尽くしているマリアを眺めているだけだった人形たちが、その一声を合図に洪水のようにマリアへと押し寄せていく。

「マリア様よ! 」
「嘘!? 本物! 」
「マリア様ー!! ファンなんです! サイン! サインください!」

「あああ! ゴメンなさい!!」

 「マリア様」「歌姫様」という大歓声をバックコーラスに大きな叫び声を上げ、マリアは階段の手すりに手をかける。次に胡蝶が目を見開いたときには、マリアは見事な跳躍力で階段の手すりを乗り越え、全速力で駆け出していた。
 金の髪とビリジアンブルーのワンピースの裾が、忙しなく揺れる。走る度、ヒールが甲高い音を立てた。

「逃げたぞ!」
「待ってください! サインを!」
「せめて握手だけでも! 」

 それまで和やかに買い物を楽しんでいた街道の人形たちが一斉に、逃げたマリアを追いかけていく。これではまるで、高額な賞金をかけられた指名手配犯ではないか。

「それ、貸してもらえますか!」

「え? あの、お客様!?」

 半ば強引に店員の腕からマリアの帽子と伊達眼鏡を受け取り、胡蝶はマリアを追う群衆を追いかけ、全速力で駆け出した。だが、人形達の足が相当に速いのか、全く追いつけそうにない。
 右へ、左へ、また右へ。何度も何度も道を曲がり、人形達はどんどん細まった、入り組んだ道へと入り込んでしまう。

「マリア!」

 足は結構速い方だと思っていたのに、人形達は人間離れした速さで逃走劇を繰り広げている。分かってはいたことだったが、彼らは人間ではない。だからきっと、息切れ、トイう感覚を覚えることもないのだろう。人間の姿をしていても、体の構造はかなり異なっているのかもしれない。
 絶対に、追いつけない。全速力で走っているにも関わらず、ファン達の最後尾の姿はすっかり見えなくなってしまっていた。立ち止まり、帽子とメガネを小脇に抱えながら膝に手を当て、欠乏した酸素を補おうと必死に呼吸を繰り返す。ケホケホ、と数度咳を繰り返した。胸に手を当て呼吸を落ち着けながら、胡蝶は現状を把握しようとあたりに視線を這わす。
 全く、見覚えのない場所だった。
 住宅街なのだろうか。クリスの家があった場所によく似ているが、少し違う。
 どこか、薄汚れている印象を受けた。

 だが、あたりを行き交う人々は談笑を絶やさない。綺麗な顔が、小綺麗に笑っている。
 前も後ろも、分からない。こんなことなら、大人しくあの店で待っていればよかったのだ。
 何持っていない。正真正銘の無一文。
 お金が存在しないといっても、何かを手に入れるためには相応のものが必要な筈だ。
 マリアも言っていたではないか、対価として物品を得ることが出来ると。
 今の胡蝶ができることなんて何もない。
 何も、ない。

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