アフタードールズ

7.路地裏の運命


「お嬢ちゃん、一人か?」

 不意に、若い男の声が聞こえた、肩を叩かれ振り返る。
 これまた目鼻立ちの整った、小綺麗な顔の男だった。
 胡蝶の世界でならモデルや俳優としてやっていけそうだ。クリスが王子様だとすれば、彼は傭兵といったところだろうか。褐色の肌に赤毛がよく映える。どの道、かっこいい事に変わりはない。
 短く整えられた赤い髪が、風に吹かれ柔らかく揺れる。
 男はきょろきょろと視線を忙しなく動かしては、わざとらしく首をかしげて見せた。

「どうした。自分の人形は、いないのか?」

 自分の人形。この世界では、人間は人形と一緒にいるのが当たり前、といった口ぶりだ。

「その、はぐれてしまって。……あの。あなたの、持ち主は」

 見たところ、近くに男の持ち主らしい人間は見当たらない。
 皆、足早に胡蝶と男の前を通り過ぎてしまう。

「俺? いねぇよ、今はな」
「今は? 」
「そ。俺はまだ、「野良(フリー)」だからな」
「フリー? 」
「なんだ、そんなことも知らねぇのか」

 それまで手持ち無沙汰に首元を掻いていた男は、心底驚いたといった様子で目を見開いて見せた。

「俺の持ち主は、まだこの世界に来てない。待機中っての? そういうことで、俺はまだ、フリー」

 持ち主を待っている。まだ、この世界に来ていない。マリアも似たようなことを言っていた。店にいた店員も、この男と同じ。持ち主を待っている。
 彼らは持ち主が人間界での寿命を終えるのを、今か今かと待っている。
 冷静に考えてみれば、悪魔のようだと思った。尻尾も翼も生えてはいないが、彼らは人間の魂を、持ち主の魂を待っている。取って食いはしないが、自分の胸に抱く日を。死後、この世界に堕ちてくる日を待っている。

「……にしても、こんなに可愛いご主人様を置き去りにするなんて、お嬢ちゃんの人形もひどい奴だな」

 男の目に剣呑さが混じる。それは、クリスが見せた冷淡な顔と、少し似ているような気がした。茶色い瞳の奥に、くっきりと赤が混じる。

「な、今暇だろ?」

 男がわざとらしく身を乗り出す。さりげなく胡蝶の腰に手をあてがい、自身の背で人混みから胡蝶の姿を覆い隠してしまう。じりじりと後ずされば、背が壁にぶち当たりますます状況が悪化した。
 道行く人は、男の所作に目もくれようとしない。きっとバカップルの痴話喧嘩くらいにしか思っていないのだろう。

「あの、私そういうのはちょっと」
「なんだよ。ノリ悪りぃな。あ、もしかして嬢ちゃん、経験ねぇの?」

 あまりにも、度がすぎる。罵りの言葉すら出てこなかった。

「ぜってぇ悪い思いはさせねぇって。……な?」

 これは、もしかしなくともナンパなのだろうか。
 男の整った顔が近付いてくる。腰を掴む腕に力が入った。
 生まれて初めての経験だが、どうも相当危ない状況にあるらしい。
 まさか人形の世界に来て、貞操の危機にあうとは思わなかった。

「お嬢ちゃんだって、自分の人形に置いて行かれたんだろ? なら、嬢ちゃんの人形にとってのあんたの価値は、所詮その程度ってこったろ?」

 頭に、血が上った。マリアのことを、そんな風に言われる筋合いはない。
 彼女は胡蝶を大切に思っていてくれた。クリスだってそうだ。
 二人は胡蝶がやってくる日を心待ちにしていた。
 大切なご主人様、私たちの胡蝶。
 そう言って笑った二人は、確かに胡蝶のことを大切に思ってくれている。
 必要として、くれている。

「俺の方が、嬢ちゃんを必要としてる」
「何も知らないくせに、そんな風に言わないで! 」

 男の股間を勢いよく蹴り上げる。

「ぃっ!!! 」

 男が眉をしかめよろめいた隙に、胡蝶は男の腕をくぐり抜け、全速力で駆け出していた。
 走る。ただひたすらに、脇目も振らずに走った。
 後ろから男の怒号が聞こえる。捕まったらただでは済まない。
 とにかく今は、この男から逃げなければ。
 がむしゃらに走った。胸に強くマリアの帽子とメガネを抱き、一目散に。
 ワンピースの裾が揺れる。
 男から逃げているうちに、胡蝶はどんどんと入り組んだ道へと入り込んでいた。
 暗い暗い、空の青がはるか彼方に見える、薄ら暗い路地裏に。
 エリプス通りとも、先ほどいた住宅街とも違う。薄暗く、活気のない闇の世界。
 日が昇り、空には一面の青空が広がっているにも関わらず、胡蝶の立つ場所は暗い。天高くそびえ建つ薄汚れた赤いレンガの壁の間に、紫色のワンピースを着た少女が一人立ちすくんでいる。
 男の声が聞こえなくなったことに安堵し、壁に背を預け、ゆっくりと息を吐き出す。男からは逃げられた。だが、状況が悪いことに変わりはない。

 ここがどこなのか、皆目見当がつかない。

 前も後ろも、広がるのは広大な煉瓦作りの迷宮。知り合いは誰も、いない。
 見知らぬ世界の見知らぬ場所に、一人きり。
 溜息を吐き、その場に小さくうずくまる。頭上に広がる青空が、とても遠い世界のように思えた。
 音はなく、ただ静寂があるのみ。

 その時不意に、微細な音が胡蝶の耳を掠めた。
 足音、というよりは何かの息と形容するべきだろうか。
 フシュー、スー、フシュー。
 息苦しそうな呼吸音があたりを満たす。
 背を悪寒が走り抜けていく。嫌な、予感がした。
 ゆっくりと顔を上げ、音のする方へと視線を向ける。
 最初に飛び込んできたのは、小さな赤い光。花びらのように、赤い粉がきらきらと輝きながら舞っている。あの時、脳裏で見たものとよく似ている。
 ブシュー、ブシュー。
 苦しげな吐息と共に、赤い閃光が質量を増す。

 ――綺麗。

 思わず見とれていた胡蝶は、光の根源にいるものに気づいた瞬間冷水をかけられた気分になった。

 クマだった。小さな、胡蝶が胸に抱くのに丁度良いサイズの、茶色い、テディベア。胸元に取り付けられた赤いリボンが、クマが歩くたびにゆらゆらと揺れる。
 だが、テディベアの口は大きく裂けている。その間から、無限に湧き出る蛍のように、赤い光が飛び散っている。よく見れば、それは光などではない。

 ――炎、だった。

 赤い赤い、深紅色の炎。
 その時、クマと目があった。バチリ、と音を立てて。
 足元から急速に体温がなくなっていく。その場から、動けない。

――アァアアアぁアアアアァァアアアアアァァアアアアアア!!!!

 人形が一際大きな唸り声を上げた途端、口から勢い良く赤い火柱が上がった。
 ボッ、巨大な爆発音の後、それまで朦朧と辺りを彷徨っていたクマが、胡蝶の瞳を捉え、嗤(わら)った。
 テディベアの形をした悪魔の移動速度が急に速くなる。一目散に路地の奥じゃらこちらに向かってくる化け物に、胡蝶は震える足を必死で動かし、全速力で駆け出した。
 とにかく反対方向に。事態は確実に悪化している。あの男に着いていっても、おそらく死ぬことはなかった。だが、今回は駄目だ。逃げ切らなければ死ぬ。
 焼き殺される。
 だが、人形の足の速さは異常だった。エンジンのように勢い良く炎を吹き出し、飛ぶようにして胡蝶を追いかけ回す。曲がっても曲がっても、走っても走っても、決して離れようとはしない。

――ウギッ、ァ、ア、ア、アァアアアアアァァ!!!

 亡霊は楽しんでいた。この生死をかけた鬼ごっこを。
 冗談じゃない。たとえここがあの世だとして、あれに焼かれても死ぬことがなかったとしても、胡蝶は一目散に逃げただろう。
 痛いのは嫌だ、暑いのは嫌だ、辛いのも、苦しいのも嫌だ。

「っ!!」

 足元をよく見ていなかったのが悪かった。体制を立て直す事も出来ず、胡蝶はその場に倒れこんだ。見れば、足元に雑巾のようなものが転がっていた。どうやら、これに躓いたらしい。腕の中の帽子とメガネが、勢い良く地面へと落ちた。
 手を伸ばしても、届かない。
 マリアに悪いことをしてまった。せっかく、胡蝶のために用意してくれたのに。帽子もメガネも、汚してしまった。あとで謝らなくては。マリアは、許してくれるだろうか。
 いや、それ以前に、もう一度マリアと会うことは出来るのだろうか。
 後に手をつき、ゆっくりと体を起こしていく。立ち上がる事は出来なかった。
 酷く、膝頭が痛んだ。おかしな話だ。ほとんど死んでいるも同然なのに、恐る恐る触れた膝の皮は、うっすらとめくれている。心臓の、息吹を感じた。
 激しい炎を目と口から迸らせていた。そして、ボロボロの胡蝶を見て笑う。ボッ、ボッ、ボッ。
 三度、小さな爆発音。
 視界の隅で、煙草の吸殻が目に付いた。よく見れば、影の中端の尖ったサングラスも落ちている。いわゆる、フォックスサングラスというやつだ。
 もしかすると、ここはそういう輩の溜まり場なのかもしれない。
 ああ、もう、だめだ。

「おい」

 覚悟を決め瞳を固く閉じた時。低い低い、男の声が聞こえた。
 先程の男の声とも違う、落ち着いた声音。
 唸り声が増す。
 そろそろと瞼を押し上げれば、先程までボロ雑巾が転がっていた場所に、代わりとばかりに一人の男が壁にもたれ、左の手足をだらしなく地面に投げ出し、座り込んでいる。
 ボロボロのスーツを纏った、目つきの悪い男。
 地面に落ちていたフォックスサングラスを気怠げに掛けながら、胡蝶の先に佇んでいるテディベアの形をした化け物をグラス越しに睨み付ける。
 アー、スシュー、アー。
 クマが肩を震わせながら、炎を吹き出す。テディベアは怒っていた。男の登場に、胡蝶との遊びを邪魔されたことに。

「……少しくらい、休ませてくれ」

 男の方は、心底怠そうだ。舌打ちをこぼしながらスーツの胸ポケットに手を入れ、何かを探っている。テディベアの視界には黒ずくめの男だけが映されていた。胡蝶など、既に眼中にない。
 勢いよく目と口から炎を吹き出しながら、跳躍する。一目散に男の方へと向かっていくクマに、胡蝶はたまらず叫び声を上げた。

「危――!!」

 男がジャケットの内側から取り出したものに、ギョッとする。
 それは、紛れもなく拳銃だった。男の髪と同じ色をした、黒色のピストル。
 本物を現実に見たことはないが、刑事ドラマや洋画の中で目にするそれと、酷似している。
 躊躇いなく引かれたトリガーから放たれる、弾丸。
 勢い良く地面を蹴り上げた化け物の腹部に、直撃した。刹那、着弾地点から青い炎が上がる。叫び声が、辺りを満たす。
 青い炎は赤を食い尽くす勢いで燃え広がり、一瞬でクマの全身を包んだ。青い花が、散る。胡蝶の瞳の中を、藍色の光が激しく照らし出していた。
 胡蝶の顔のすぐ近くで、目と鼻の先で、化け物が燃えている。
 赤い炎を口から迸らせながら。
 それはきっと悲鳴なのだ。声をあげることすらできない人形の、最後の叫び。

 だが、男に慈悲はなかった。再度弾丸を放つ。バン、バン。
 二回、音がした。
 音の度、クマが激しく後ろに後ずさる。ゆらゆらと不安定に輝いていた光は、やがて完全に青に取って代わられた。命が、燃えていく。
 ひときわ大きな音を立てたかと思えば、人形は巨大な青の火柱に包まれた。辺り一面が濃青に染め上げられる。呆気にとられ息をすることさえ忘れている胡蝶とは対照的に、男は手馴れた様子で銃の薬莢を抜き去っていた。
 カラカラと、炎の後ろで乾いた音がする。人形が完全に燃え尽きるまで、胡蝶は何も話すことが出来なかった。ただ黙って、燃え盛る人形を見ていることしかできない。
 助けてもらった礼を言うことも忘れ、胡蝶はしばし命の終わりに魅入られていた。

 人形が燃え尽きて、ただの黒炭と化してもなお、胡蝶は動くことが出来なかった。
 背後から気の抜けた男の溜め息が聞こえたのを合図に、ようやく胡蝶はおずおずと振り返った。改めて見ても、目つきの悪い男だった。胡蝶の頭の中にある「殺し屋」像をそのまま体現したら、きっとこんな顔になる。
 だが、男には先程までの覇気が全くと言っていいほどなかった。
 影とサングラスでよくよく見なければ分からないが、顔色もかなり悪い。

「あの」

 下を向いていた男が顔を上げる。
 胡蝶と目が合った瞬間、男から消え果てていた活力がどこからともなく舞い戻ってきていた。右腕でフォックスサングラスをゆっくりと外しながら、信じられないと言った顔で、まじまじと胡蝶を睨みつける。
 本人はただ見ているだけのつもりかもしれないが、胡蝶からすれば瞳だけで射殺されるかと思う程度には、男の眼光は鋭く尖っていた。

「……なんで、お、じょう、が」
「……え?」

 「お嬢」と、聞き間違いでなければ確かに、満身創痍の男はそう言った。その言葉を最後に力尽きたのか、ガクン、と男は顔から汚水の中に倒む。跳ねた水が胡蝶の顔にかかった。目に入らぬようにと咄嗟に閉じた目を次に開けた時、胡蝶の前にあったのはヤクザ紛いのいかめしい男ではなく、先程雑巾と見間違った、ボロの人形だった。かろうじてちぎれてはいないものの、左腕と左脚が真っ黒に焦げている。あの化け物の炎に焼かれてしまったと考えるのが一番自然か。
 腰から下を引きりながら、両手を使って這うようにして近づく。

「あの、大丈夫ですか!?」

 慎重に人形の体を持ち上げながら呼びかける。
 初めて顔をまじまじと見た瞬間、胡蝶は心臓が止まるかと思った。

「コジ、ロー」

 紛れもない、「最初の」胡蝶の人形。両親に誕生祝いとして送られた、二頭身の狼の人形だった。吊り目がちの黒い瞳、不機嫌そうに吊りさがった口元。どこからどう見ても、胡蝶の家にあるものと一致している。
 ただ一つ、左の腕と足が焼け焦げている、という点を除けば。
 背を嫌な汗が伝っていく。
 耳をすませば微かなうめき声のようなものが聞こえる辺り、まだ息はあるようだ。
 しかし、このまま放っておくわけにはいくまい。
 だが、怪我をした人形をどこへ連れて行ってやればいいのかが分からない。人間と同じ思想で考えるのならば病院なのだろうが、そもそもこの世界に病院はあるのだろうか。
 忙しなく周囲を見回す胡蝶の腕の中、閉ざされていたつぶらな黒い目がゆっくりと開いていった。

「や………に……」
「え?」
「ふ、るやの、店、に……」

 人形の首が微かに動く。視線を追うと、一枚の紙が目に付いた。
 男のスーツのポケットに入っていたのだろうか。「古谷(ふるや)裁縫店」と書かれた、一枚の名刺。泥にまみれ茶色くなっているが、かろうじて文字を読むことは出来た。
 裏を見れば、簡単な地図が描かれている。

「ここに、行けば……、いいんですか?」

 話しかけても反応はない。すっかり気を失っている。
 選択の余地はない。腕を伸ばし、すっかり汚れてしまったマリアの帽子とメガネを手にする。帽子の中に腕の中の人形とメガネを入れ、胡蝶は震える足を叱咤し、なんとか立ち上がった。
 ここで胡蝶が頑張らなければ、コジローは絶命してしまうかもしれない。
 目の前で誰かが死ぬところは、見たくない。しかも腕の中にいるのは命の恩人ときている。
 人形が死ぬ、なんて奇妙な事を言っているのは自分でも分かっている。だが、現に熊の人形は胡蝶の目と鼻の先で燃え尽きてしまった。
 名刺の裏に書かれた地図を頼りに、胡蝶はよろけながらも足を踏み出した。
 この二日、走ったり、泣いたり、こけたりしてばかりだ。転んだ時に擦りむいた膝がじんと痛む。しっかりと落とさないように荷物を抱えなおし、胡蝶は薄暗い路地の中を走り抜けていく。
 真上に輝いていた筈の太陽が、青空の中、僅かに首をもたげていた。

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