地獄の底でふたりきり

13.鎮守の沼にも蛇は棲むX

 薄明かりだけが夜空を微かに染め上げる、朝と夜の間。
 太陽は未だ姿を見せず、頭上にはほのかに光を映す瑠璃色が広がっている。

 イヴが知恵の木を訪れるのは、決まって昼食を摂ったあとだった。
 太陽が最も天高く昇る時。
 初めてレボルトの元を訪れた時と同じ時間帯である。
 特に約束をしているわけではなかったが、それが二人の間にあった決まり事のようなものだった。
 イヴが決まって繰り返していた無意味な問答と変わらない、くだらない約束事だ。

 にも関わらず、今はこうして夜明け前の薄明かりの中進み続けている。
 レボルトに、真相を問いただすために。
 アダムは絶対に教えてくれない。イヴに気付かせまいとしている筆頭なのだ。聞いても曖昧にはぐらかされ、徒労に終わるだけだろう。
 王に聞くのも現実的ではない。
 あの屋敷は、イヴを永遠に気付かせてはくれない。

(……気付くも何も、私とレボルトは何でもないわよ)

 レボルトとの間に、特別なものなど存在しない。
 例え何らかの思いがあるにせよ、それはイヴが一方的に募らせているだけにすぎないものだ。
 10年前からレボルトにとってのイヴは「生意気な人間の小娘」でしかなく、それ以上にはなり得るはずがない。
 だから、今こうして頭の片隅で聞こえる鎖の揺らぐ耳障りな音も、幻聴に他ならない。そうでなくては困るのだ。
 イヴは寝不足で霞む目を擦りながら、半ばやけ気味に地面を踏みしめていった。

「今日は、随分と早いんですね」

 出迎えた男は、億劫そうに木の上で伸びをしていた。
 しかし緩慢な動作とは反対に、男の目は冴え渡っている。
 幹に背を預け、枝の上で足を組むレボルトの姿に、不気味なほどに初めて出会った日の光景が重なって見えた。
 名前を持たない蛇に、呼びたいのだとこの手で名を与えた。
 あの時は、イヴもまだ幼かった。
 だが今は、何も知らず無邪気に笑えていたあの頃とは状況が違う。
 見上げた薄闇の先、濁った紫色の目が静かに輝いている。
 闇の中浮かび上がるいつも通りの皮肉な笑みが、普段より数倍邪悪なものに見えた。

「そうね。こんな早くにごめんなさい」

「別にいいですよ。あなたが迷惑なのはいつものことですから」

「……そうね」

 飛ばされる皮肉も相変わらずだ。訪れる時間は違えど、二人の間に変化が訪れることはない。
 だが、それでいいのだ。
 イヴが求めるのは変化などではなく、むしろその真逆である。
 ずっとこの時が続けばいい。
 前にも後ろにも進まず、この時間のまま時を止めてしまえたらいいのにと、いつもそんな馬鹿げたことを考えている。

 不可能だということは、イヴ自身百も承知である。
 それでも願わずにはいられない。
 この関係が変わらなければ、会い続けることができる。一緒にいることができる。

 けれど、それでは嫌だと駄々をこねる自分がいるのもまた事実だった。
 これ以上を求めることなど許されないのに、もっと深いところまで暴きたててしまいたくなる。
 答えてくれとは思わない。それでも、少しくらい優しくしてくれてもいいのではないかと、傲慢な願いを持ち続けている。
 せめて、完膚なきまでに叩きのめしてくれればいい。
 そうすれば諦めもつくというのに、蛇は本当に残酷だ。
 口先では嫌いだ来るなと言いながら、本気で嫌がることはしない。
 だからこそ、錯覚しそうになる。

「……それで?」

 地に足を下ろし、いつものように幹に背を預け、片膝を立て地面に座り込んだレボルトは、億劫そうにイヴを促す。

「あなたにとって、私は何?」

 レボルトの目が細められた。
 見下ろしているのはこちらだというのに、見上げてくる眼光に気圧されてしまう。
 唾を飲み、手のひらを強く握りしめ、イヴはその場に立ちすくんだまま座り込むレボルトを睨みつけた。威圧的な紫からは、何も感情を読み取ることができない。

「名前を付けることに、一体何の意味があるっていうの?」

 薄暗い草原に静寂が走る。
 そよ風に微かに凪ぐ草の音だけが、イヴの鼓膜を揺らしていた。

「——10年前」

 瞳を閉ざし、レボルトは諦めたように溜息を吐く。
 存外に呆気ない吐露に、イヴは少し拍子抜けした。

「名を付けられたあの日から、俺はあなたに縛られている」

 どくんと、心臓が締め付けられたような感覚に襲われる。
 浮かび上がるのは十年前、レボルトと初めて出会った日のことだ。
 名を与えた瞬間、頭の片隅で鍵を掛けられたような不気味な音が鳴り響いたことを思い出す。

「どういう、意味?」

 知りたい、知りたくない、気付きたくない、頼むから気付かせないで。

「名を与えるということは、相手をその名で自分に縛るということです。要するに、俺はずっとあなたの『お友達ごっこ』に仕方なく付き合い続けているだけ、ということですよ。……これで満足ですか?」

「……そう」

 静かに呟き、イヴはレボルトに背をむける。

 この男は、自分には逆らえない。だって、そういう風に出来ているから。
 説明されずとも、魂に刻みつけられている。あの日、あの時、何も知らぬまま名を与えてしまったあの瞬間から、レボルトはイヴに逆らうことが出来なかった。

 誰に言われるでもなく、実感としてはずっと分かっていた。
 それなのに、必死に気付かぬふりを続けていた。
 アダムの思いに見て見ぬ振りを貫き続けていたのと同じこと。

 仕方なく一緒にいただけ。名前で縛られているから、逆らえなかっただけ。
 ああ、どこまでも報われない。
 滑稽すぎて笑えてくる。
 肩を震わせ、イヴは笑い混じりに声を吐き出した。

「今のでやっと、納得がいったわ」

「は?」

 涙を堪え無理に明るい声を出せば、レボルトは間抜けな声を上げる。

「あなたが私のことを好きじゃないのは、最初から分かってた。気まぐれにしては時間が経ちすぎだし、人間の娘だから無下に出来ないだけだと思っていたけれど、そう。……そうだったのね」

 この十年は無駄だったというわけか。
 友達になりたいなど、よく言えたものだと思う。

「説明してくれてありがとう。それから、勝手なことをして、ごめんなさい」

 この関係は、最初から対等なものなどではなかった。
 出会いからして、あまりにも歪みきっている。

 後ろで手を組み、黒いワンピースの裾を翻し、レボルトへと向き直る。
 無理に笑顔を形作り言い訳がましく独白を続けようとして、イヴは思わず言葉に詰まった。
 座り込んだまま、レボルトはじっとこちらを睨みつけている。
 恨みがましく、とでも形容すればいいのだろうか。
 濁った紫は煌々と輝く黄金へと姿を変え、仇でも見るかのような残忍な眼差しで、言葉に詰まるイヴを捉えている。

「……人の気持ちも知らず、ぬけぬけと」

 皮肉げに口角を吊り上げ、レボルトは笑う。
 その言葉に込められた重みにも気付かず、イヴは自分勝手に言葉を吐き出していく。

「そうね。……自分でも、身勝手だったと思ってる」

 息を整えることに必死だった。
 まともにレボルトの顔を見ることも出来ない。
 下を向き、胸の前で両腕をきつく握りしめたまま、イヴは喉の奥に詰まった声を無理やりに絞り出していった。

「だから、これで終わりにしようと思うの」

 反応はない。不気味なまでの沈黙が、イヴの肌をちくちくと突き刺していた。

「私はもうここには来ないようにする。あなたにはもう関わらない。……そろそろ、ふんぎりをつけなくちゃ、レボルトにもアダムにも申し訳ないもの」

 終わりになんてしたくない。
 永遠に終わらせたくなんかない。
 相手に何と思われていようがどうでもいい。
 蛇だって何だって関係ない。
 レボルトはレボルトだ。
 悪魔だろうが何だろうが、イヴにとってはそれ以上でもそれ以下でもない。

 けれど、これ以上裏切りたくない。
 頭の中に婚約者の姿を思い描きながら、強く歯を食いしばる。
 子供っぽい中途半端な責任感が、イヴをぎりぎりで踏みとどまらせていた。

「……だから、もうおしまい。今まで付き合ってくれて、ありがとう。……言いたいことは、それだけ」

「……俺を縛っておきながら、今更何を言っているんですか?」

 いつの間に立ち上がったのだろうか。
 再び背をむけると同時に、レボルトに片腕を掴まれた。手首を折らんばかりの強い力で掴まれ、イヴはたまらず小さな声を上げる。
 喉の奥から絞り出された低い声が、イヴの背を蝕むようにして這い上がった。

「もし」

 感情の一切を削ぎ落とした声で、レボルトは問う。
 陽はまだ昇らない。薄暗い空の下、悪魔はイヴをじわじわと追い込んでいく。

「もし俺があなたを好きと言ったら、その時はどうするつもりだったんですか?」

 今まで意図的に互いに避けていた場所に、蛇はこのタイミングで無遠慮にも踏み込んできた。
 言葉に詰まったまま、しばし身動きを取ることも出来ず固まる。
 レボルトは、イヴを試しているだけだ。だから、動揺などしてはいけない。
 息を吸い込めば、ひゅうという間抜けな音が口をついた。
 掴まれた腕から伝わる熱に、頬が熱くなる。

 イヴの思いは矛盾している。
 応えてほしい、愛してほしい、でも今のままでいたい、変わりたくない、変われない、この関係を終えたくない、全てを投げ出してでも一緒に居たい、このまま振り返って無様に泣き叫びたい、その上で、二度と立ち直れなくなるほど拒絶してほしい。だって、ずっとこのままではいられない。それは絶対に赦されない。
 理性と欲望が渦を巻き、イヴの頭の中をかき乱していく。
 本当に、馬鹿げている。

「……別に、どうもしないわよ」

 答える声は、無様にも震えている。イヴを引き止める手に込められた力が増した。
 全てを裏切ってまで自分の恋愛感情を優先させるほど、イヴは子供には成りきれなかった。
 好意などなくとも構わない。
 無理やりでも何だって、この絆だけは引き裂くことが出来ない。
 下僕だって何だって、これまで過ごしてきた時間だけは本物なのだ。
 だから、これ以上は望まない。
 いつまでも夢見る乙女ではいられない。
 いつか、そう遠くない未来に自分が纏うことになるであろう純白を想像しながら、イヴは震える声で静かに拒絶の言葉を吐き出した。

「だって、そんな日は一生来ないもの」

 耳がタコになるほど聞き飽きた台詞を、そっくりそのままなぞってやる。
 いつも通り皮肉な笑みを返してくれればいいものを、レボルトは微塵も笑んでなどくれなかった。らしくもない真面目な声音で、蛇は主人を引き止めている。

「もしも、ということがあるかもしれないじゃないですか」

「……たちの悪い冗談はやめてよ」

「どうして? いままで散々『好きだ』とほざいていたのはあなたの方でしょう?」

 逆らえないというのなら、イヴが本気で拒みさえすれば、レボルトはきっと手を離さざるをえない。だが、イヴはそれを望んではいない。
 離せと願う一方で、引き止められて嬉しいと思ってしまっている。
 この程度の挑発に、無様にも喜んでしまっている自分が一番嫌いだった。
 騙されてはいけない。相手は同じ人ではない。
 信じてはいけない。
 相手は人の姿をした獣なのだと、こんな時に限って口うるさく言われてきた忠告が頭の中を支配する。

「俺のことが好きだと、ずっとそう言っていましたよね?」

 レボルトは、イヴを煽って楽しんでいるだけ。
 すがっているようにすら思える真摯な態度も、全て演技だ。

 ——その心までは、決して蝕まれてしまわぬように。

 呼吸が荒くなる。
 肩で息をしながら、イヴは掴まれてはいない方の手のひらをきつく握りしめた。

「……あなたはずっと、私のことが嫌いだって言っていたじゃない」

「ええ、嫌いですよ」

 吐き捨てるようなイヴの言葉に、レボルトはいつもの調子で答えを返す。
 強く腕を後ろに引かれた。咄嗟に目を閉ざせば、背を強い衝撃が襲う。
 恐る恐る目を見開いていくと、眼前にレボルトの顔があった。
 物騒な黄金の中に、無様に呼吸を荒げる自分自身を見つける。
 肩を掴み木の幹に押し付けられるような形で、イヴはレボルトを見ることを強いられていた。

「昔から、あなたは本当に頑固ですよね。……強情で、身勝手で、そのくせ妙に冷静で」

 視線を逸らそうと横を向けば、顎を掴まれた。
 暗闇の中輝く頭上に見える金色は、殺意すら込められていそうな威圧的な眼差しでイヴを睨みつけている。
 口説かれている、などという甘い次元の話ではない。
 縛られている、下僕だとぬかした男は、喉元を食いやぶらんばかりの勢いで顔を掴む腕に力を込めていた。
 ひゅうと、喉元から間抜けな呼吸音が聞こえる。

「本当に、好きになれそうにない」

 自分に言い聞かせるようにして、男は自虐的につぶやきを漏らす。
 何か言わなければと再度口を開いたところで、イヴの言葉は声になることなく掻き消えた。

「っ……う……!?」

 拒絶の言葉を言い放ったのと同じ口で、蛇は無遠慮に主人の唇を塞いでいた。
 目を見開き、イヴはしばし抵抗することすら忘れ、呆然と眼前に広がる小綺麗な顔を眺めていた。
 神経質そうな輪郭、伏せられた瞼、頬を、肩を掴む節くれだった指先、わずかに差し込む太陽光を反射するまとめられた長い金髪。
 そのどれもが、イヴの心を捕らえて離さなかった。

 抵抗しなければならない。それはイヴにも分かっている。
 こんなところを他の誰か、ましてやアダムに見つかった日にはどうなるか分かったものではない。
 ああ、そうだ。抵抗しなければ。これは単なる嫌がらせだ。
 いつも叩かれる軽口と何ら変りない。
 軽くレボルトの胸を叩いてみせるも、レボルトは全く退く様子を見せなかった。

 イヴの動揺を無視し、レボルトは口付けを深めていく。
 閉じられた唇を無理やりに割り開き、文字通り貪るようにして奥へ奥へと押し入っていく。
 肩を支えていた腕をイヴの腰へと移し、主人の口内を容赦なく嬲(なぶ)る。
 口付けを深める度に耳を刺す生々しい水音に、イヴは瞼を必死に閉ざし、もたらされる恥辱に耐えていた。
 全身の血液が顔に集まったのではないかというほどに、顔が熱くなる。
 無理だ。レボルトからすれば嫌がらせのつもりだろうが、こっちからしてみればたまったものではない。

「……ぁ、……って」

 息を紡ぐため一瞬解放された隙に、制止を呼びかけた。
 レボルトは眉を微かにしかめはしたが、瞳を潤ませながら告げられた制止の言葉など、逆に男を煽るだけのものでしかない。
 喉元を低く震わせ、レボルトは再びイヴの口を塞いだ。
 口付けも初めてだというのに、蛇は容赦がない。
 無遠慮に絡められる舌に、ろくに男を籠絡する術も知らぬ生娘はされるがままだ。
 いっそのこと舌を噛んでやればいいのだろうかと、イヴは酸欠で朦朧とする頭で物騒なことを考え始めた。

「……あ」

 漏れ出た甲高い声に、イヴは必死に口をつぐもうとする。
 だがそれを許すまいと、レボルトは歯列をなぞり舌を絡めてくる。
 ああ、本当に浅ましい。
 腰を強く抱く腕に、欲の込められた黄金の瞳に、心の底から求められているのだと勘違いしそうになる。
 そんな日は一生来ないというのに。
 無理やり名前で縛り付けた身勝手な人間に対し、レボルトは最も残酷な方法で報復しようとしているだけ。この行為に、愛はない。
  気付いた瞬間、これまで夢心地だったのが嘘のように思考が鮮明になっていく。

「……ぁ……めて……よっ!」

 肩で息をしながら、イヴは力強くレボルトの胸を押し返した。
 それまでの拘束が嘘のように、レボルトは呆気なくイヴを解放した。
 離された唇が、透明な糸を引く。レボルトは何も言わなかった。
 ただ暗がりの中で金の目を輝かせ、無感動に舌で自身の口の端についた、どちらのものとも知れぬ唾液を舐めとるさまに、イヴの背にぞっと震えが走る。

 それ以上直視出来ずに、イヴはレボルトの体を押しのけ、背を向けた。
 浮かべられた歪な微笑に気付かぬまま、少女は必死に来た道を駆け戻っていく。
 ゆっくりと姿をあらわす太陽が、口を必死に手の甲でこすりながら駆け抜けていく、イヴの罪を照らし出していた。
 玄関の扉を音を立てぬようにゆっくりと開け、イヴは戸を閉め家の中に入ると同時に、ずるずると扉に背を預けその場に座り込んだ。
 膝を抱え、顔を腕の間にうずめながら、イヴは暴言を吐く。

「……馬鹿」

 蛇は、残酷な生き物だ。
 薄暗い室内で歯を食いしばりながら、イヴは声もなく泣いた。
 膝を抱える腕が、微かに震えている。
 嫌いだ、大嫌いだ。
 あんなことをされて少し嬉しいと思ってしまっている自分が、何より一番浅ましくて、許せなかった。

 聞き慣れた靴音が、イヴの鼓膜を揺らす。

「おかえり、イヴ」

 涙をぬぐいながら、ゆっくりと顔を上げる。
 見慣れた赤毛、落とされた残酷な微笑みに、イヴは自分の運命を悟った。
inserted by FC2 system