地獄の底でふたりきり
2.蛇の足より人の足
再度強い風が吹く。衝撃に、少女は再び目を閉ざした。
破片から身を守るかのように抱きしめる男の腕が、少女の顔をかばっている。
温かな熱を感じた。鼻腔を掠める柔らかな匂いに、不思議とまどろんでしまう。
私は、この人を知っている。
鏡の嵐にかき消されないよう、反射的に男のシャツを掴んだ。
一瞬、男の腕の力が弱まった隙を見計らって、顔を上げる。
鏡の破片の海の中、金色の目をした男が垣間見えた。
鏡の回廊は姿を消し、二人の姿だけが暗闇の中に浮かび上がっている。
長い金の髪をひとまとめにした、細身の男だった。
だが触れている胸板は、見目の割にはがっしりとしている。
「どうして」
最初に男が発した言葉は、それだった。
爬虫類のような黄金色の目を細め、威圧的とも懐古的とも取れる表情で、男は少女の顔を凝視している。
どうしてと言われても、分からない。
見上げれば、間抜けな顔で金色の目の中に囚われている自分の姿があった。
心臓の鼓動が数を増す。知っている。ずっと、漠然と誰かに逢いたいと願っていた。問われても、その人が誰なのかは答えられない。
だが、逢いたかった。名前も顔も知らない、けれど特定の、たった一人の「誰か」に。その誰かは、今眼前にいるこの人だ。確証はない。だが、知っている。
このぬくもりを、声を、ためらいがちに触れてくる指先を。
「忘れてください」
節くれだった指が、少女の両目を覆い隠した。
嫌だ、忘れたくない。
ここで忘れてしまっては、本当にもう二度と会えなくなってしまうような気がした。
だって、この男には前科がある。
前科? 一体何のことだっただろうか。
「……忘れて、くださいよ」
聞き分けのない子供に言い聞かせるように、男がゆっくりと口を開く。
薄れゆく意識の中、拒絶の言葉を吐き出したところで少女の意識はぷつりと途切れた。
次に目を覚ました時、再び少女は見覚えのない空間にいた。
ゆっくりと体を起こせば、再び頭痛に襲われる。ずきん、と痛みの走る額に手首をあてがいながら、歯を食いしばり、眉をひそめる。
ジャメヴュ、既視感、デジャヴ。
言い方は色々あるが、とにもかくにも最初に目を覚ました時と状況が似すぎていやしないか。
ただ今回は、床ではなくベッドの上。寝心地が悪くなかったことだけが唯一の救いだろう。
どうしてこんなところにいるのだろう。
そういえば、誰かに抱かれていたような気がする。
だが、いくら思い悩んだところで思い出せない。
とにかく現状を確認しようと、頭を抱えたまま視線だけを室内に這わせた。
ごくごく、普通の部屋だ。白い壁紙に、白い床というのがちょっとしつこすぎる気がするが、鏡の迷宮よりは圧迫感が格段に緩和されている。
最低限の家具と生活必需品だけが揃えられた簡素な部屋だが、なんといっても窓がある。
外の景色が見えるというだけで、幾分頭痛はましになった気がした。
眠っていたベッドから降り、床に足をつく。
ご丁寧に黒のロングブーツの紐は解かれ、ベッド下に置かれていた。
どうやらここに連れてきた人物は、少女を乱暴に扱う気はないらしい。
だが軽く見渡した限りでは、この部屋に少女以外の人影は見当たらない。
(……また、一人で放置)
よっぽど深層心理では一人になりたかったのだろう。
夢の中で目が醒める、というのも変な感覚だった。
しかし、寝覚めは最悪だ。
ストッキングのまま窓に近付き、しばし久々の太陽光を浴びることにする。
木製の枠がついた、ごくごく普通の西洋風の出窓だ。
鍵が取り付けられている節もない。少し押せば簡単に開きそうだったが、いくら押したところでびくともしない。
しばらく開けようと奮闘してみるのだが、微塵も反応を示さない窓に、最後には開けることを諦めた。
見覚えのない場所だ。眼前に広がる景色も、特に思い出の地というわけではない。
青空と丘だ。丘の上には巨大な木が生えている。
ここからでは何の木か判別できないが、何か実ようなものが生っているように見えた。雲は緩やかに空を流れ、耳をすませば小鳥のさえずりが聞こえて来る。
草原の上に寝転がれば、なかなかに心地がよさそうだった。
肘をつき、ひとつため息を吐く。
眼前に広がる景色は、物語の一場面のようだ。
見たことはない。記憶にもない。
しかしこうしてじっと見ていると、忘れている何かを思い出せそうな気がした。
(……何を考えているの)
今最優先で思い出すべきは、自分の名前のはずだ。
むしろ、それ以外に忘れているものが思い当たらない。
けれど忘れている。忘れたくないと願っていた何かを、大切な誰かを。
考えれば考えるほど増す頭への締め付けが、少女の考えを言外に肯定していた。
「変なところで強情ですよね、あなたという人は」
肩を盛大に震わせ、窓に背を向ける。背を打ち付けた窓枠が、がたんと歪な音を立てた。
背後には、見覚えのない金髪の男が立っている。腕を組み、鬱陶しげに少女の瞳を射抜いていた。
男にしては長い金の髪を、ひとまとめにしばったスーツ姿の男。
蛇の舌を連想させる深紅色のネクタイを締めてはいるが、これがもしも黒色だったのなら、喪服のようなドレスを自身がまとっていることもあり、完全に葬式会場の体だっただろう。
現状でも、遠目からみれば割とシャレにならないだろうことは想像に難くない。
「い、一体どこから」
「自分の家にいて何が悪いんですか。あなたに文句を言われる筋合いはないんですがね」
息を荒げながらの問いに、男は飄々と答える。
男の顔を凝視する。どこかで見たような気がする。
だが、思い出せない。知っているのに分からない。
奇妙な感覚だ。
前後の出来事をほとんど覚えていないが、どうもこの男が鏡の迷宮から救い出してくれたのは間違いないらしい。
「目は覚めましたか?」
視線が気に触るのか、男は言いながら顔を背けた。
気遣いは感じられる。だが、男の態度は余所余所しい。
「まあ、一応は。……その、助けてくれたんですよね?」
「あなたがそう思うならそうなんじゃないですかね」
そっけない態度で言い放った男は、ベッドへと向かっていった。
頭に疑問符を浮かべたまま、少女は男の行動を見守る。
しばらくして、金髪の男は少女の履いていたブーツを持ってくると、立ちすくむ少女の前に差し出した。
男からは変わらず冷たい視線が向けられている。敵意とまではいかないが、紫の双眸に浮かんでいるのは明確な拒絶の情だった。
「目が覚めたのなら帰ってください。あなたはここにいるべきじゃない」
「帰れって言われても、連れてきたのはあなたの方でしょう!?」
心配しているのかと思えば突き放され、連れてきたかと思えば突然帰れと言ったり。この男が何をしたいのか分からない。
「……やむをえない事情があっただけです。とにかく、今すぐにそれを履いて、とっとと俺の前から消えてください」
男の指差した先には、外に通じると思われる扉があった。
崩れがちで不完全な敬語、「俺」という一人称のせいで、綺麗な外見のくせにちっとも美しいとは思えない。むしろ、無性に神経を逆撫でされた。
「そう、分かった。えーえー、分かったわよ。あなたの言う通り、こんなところとっととおさらばしてやる」
男の手からブーツを奪い取り、玄関へと向かう。
感謝していたのが馬鹿みたいではないか。
「短い間だったけど、ありがとう。お望み通り、あんたのことなんてすぐ忘れてやるわよ」
「それは結構」
軽口に軽口で返した男は、興味なさげに窓の外を眺めているだけだった。
靴紐を結び、男に背を向けたまま扉を押し開く。一般的な金属製の扉だった。
ここまでお膳立てされているのだ。きっとこれで目が覚める。期待を込めて開かれた扉の先、少女の期待を裏切るかのように、そこには何もなかった。
文字どおり、何もない。広がるのは、一面の闇だけだった。
「……え」
ドアノブを掴んだまま、その場に立ちすくむ。
一歩足を踏み出せば、深い深い闇の中へと落ちてしまいそうだった。
深淵、正にこの世の終わりのような深い深い黒。
一面の闇の中に、ぽっかりとこの部屋の扉だけが浮かんでいる。
ドアノブを掴む腕が小刻みに震えていた。
地獄というのは、もしかしたらこういう場所のことを言うのかもしれない。
燃え盛る活火山や、紅蓮の空、人の血が流れる川なんかよりも下手をすれば恐ろしい。ここにあるのは虚無だ。痛みも苦しみも、何もない。
だとすれば、窓の外に広がる微睡みはなんだったのか。
悪魔の見せる甘いまぼろしの類だとすれば、あまりにたちが悪すぎる。
誘惑のまま外へ飛び出しこの中へと落ちたのなら、きっと跡形もなく消し去られてしまう。文字どおり、無になってしまう。
夢なのだとしても、足を踏み入れてはいけないのだ。
気が付けば、少女は深いため息を吐く男の胸の中にいた。
男は飽きれがちに扉を閉ざし、少女を部屋の中に再び引き入れる。
「怪我は?」
「だ、大丈夫」
頭のすぐ上で、男の不機嫌な囁きが聞こえる。
だが少女の無事を確認すると、男はあっさりと少女から腕を離した。
あくまで事務的に、触る必要があったから仕方なく触ったのだとあからさまに分かる態度だった。
「つくづく、あなたは本物の馬鹿だと思いますよ」
「初対面の人に、そんなことを言われる筋合いはないんだけど?」
先ほどの意趣返しだ。
馬鹿だと言うのなら、それこそ本気で鬱陶しいと思っているのなら、そもそも助けなければいいのだ。
あそこで闇の中に落ちていれば、きっと死んでいた。夢なのだとしても、あそこには踏み入ってはいけない。それくらいは直感で察した。
そもそも鏡の迷宮から逃がしている時点で、この男は冷徹になりきれていない。
少なくともこれで二度、金髪の男は少女を救ったことになる。
ツメが甘いのか、そうでなければ超がつくほどのお人好しだ。
少女の言葉に、男は黙って眉をしかめている。
言い返してくる素振りは見せなかった。
「……とんでもない悪夢ね」
「夢じゃありませんよ」
ぽかんと間抜けな顔で、戸の鍵を閉める男の横顔を見つめる。
男はそんな少女へと、呆れ交じりの鋭い視線を投げた。
「もっと本気で願ってください。でなければ、最悪の事態になる」
「私がここから出たいと思っていないとでも?」
「事実そうでしょう。だからあなたは、こんな場所にのこのことやって来ているんです。一体何が望みなんですか? これ以上俺にどうしろと?」
「私を家に帰して」
簡単なことだ。ここに連れてきたのと同じように、家に帰してくれればいい。
だが、男の答えは釈然としない。
「……あなたが望むのなら、すぐにでも」
「……望んでいるわよ」
こんなところに長くはいたくない。
だが、男の言う通り焦燥感に欠けているのも事実なのだ。
鏡の迷宮で感じた圧迫感には到底及ばない。
死に物狂いで帰りたい、なんとかしてここから出たい。
そこまで切迫とはしていないのだ。
「あなたが本気にならなければ、俺にはどうすることも出来ません。もっと必死になってください。……楽園に帰りたくはないでしょう?」
楽園。えらく漠然とした単語だ。
そもそも訪れたことがない場所へ、どうして帰れると言うのだろうか。
単語の意味だけなら知っている。だが、そんな場所は知らない。帰る場所なんて自分の家以外にあるはずがない。
そうだ。戻らなければいけない。
けれどそれは、楽園ではない。私が戻るべきなのは、もっと別の場所だったはずだ。
何かを思い出しそうで、思い出せない。
ずっとその繰り返しだ。頑なに思い出すことを拒んでいる。
眼前の男のことだってそうだ。知っているはずなのに、分からない。
もう少しだ、もう少しで思い出せそうなのに。
「お願いですから、これ以上俺の側にいないでください」
男に肩を掴まれ、反射的に顔を上げる。
てっきり呆れられたのかと思った。
だが、男の顔に浮かんでいたのは呆れでも、ましてや怒りでもない。
縋るようなこの目は、懇願だ。
捨てられた犬のように、紫色の目がこちらを見下ろしている。
「あなたのためなんです」
やはり、私はこの男を知っている。
逢ったことはなくとも、名前を忘れてしまっていても、誰よりよく知っている。
それから、暫しの沈黙が落ちた。
ぐるぐる回って、全て霧に隠される。
悩みに弄ばれるだけで、いつまで経っても解決しない。
その時、部屋の戸をノックする音がした。
ぎょっと扉を凝視する。この先には何もないはずだ。
現に少女はうっかり落ちそうになっている。この先には、人が立つことが可能な場所がない。巨大な空洞、底知れぬ闇が広がっているだけなのに。
「隠れてください」
「え」
「いいから、ベッドの下へ」
表面上は穏やかながらも、肩を掴む腕には力が込められている。
男の態度からも、この状況が異様であることは見て取れた。
瞬時に緊張が走る。扉越しにその先に立っているであろうものを想像しているのだろう。紫色の目の中には、不思議と一瞬黄金色が浮かんだように見えた。
言われた通りに、少女は先ほどまで自分が眠っていたはずのベッドの下に潜り込む。
何かよくないものが訪れようとしていることだけは、なんとなく察することができた。
「俺がいいと言うまで、大人しくしていてください」
しゃがみこんでベッドの下の少女と目線を合わせた男は、少女が無言で首を上下に降るのを確認すると、何事もなかったかのように立ち上がり、扉へと向かった。
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