地獄の底でふたりきり

3.杯中の蛇影

 男からは大人しくしていろと言われたが、少女はひどく扉の先が気になっていた。
 暗闇からやってきたものがどんな姿をしているのか、怖さ半分、残り半分は単なる興味だ。
 うつ伏せの状態で、ベッド下の隙間から部屋の様子を覗き見る。
 最初に飛び込んできたのは、深くため息を吐き、前髪を乱雑に掻きむしってから、渋々といった様子で扉を開ける男の姿だった。

 さて、一体どんな怪物が佇んでいるというのか。少女は小さく息を呑む。
 だが開かれた玄関の先に待っていたのは、暗黒でも怪物でもない。
 広がるのは一面の光。その中に、小さな黒い影が浮かんでいた。
 あまりの眩さに、目を細める。光源を背に佇んでいたのは、一人の少年だった。年齢は小学校低学年程度だろうか。
 短くまとめられた黒い髪に、容姿には不釣り合いな立派なライトグレーのスーツをまとっている。さながら七五三のお仕着せのようだ。
 胸元に締められた白の蝶ネクタイから察するに、どちらかといえば親戚の結婚式に連れてこられたようだ、と形容するのが正しいのかもしれない。
(私とあの人が葬式みたいな格好をしているから、余計そう感じるというか……)
 一人だけ、えらく場違いな格好に思えた。正装ではあるが、少年のそれは二人とは真逆のものだ。どちらかといえば、赤毛の男に近い印象を受けた。
 無理やりにでも当てはめるのならば、赤毛の男が花婿、この少年が参列者といったところか。では花嫁はどこにいるのかと言われても、少女には見当もつかなかった。

 金髪の男曰く夢ではないらしいが、この夢に出てくる人物はどうしてこうも正装揃いなのだろうか。
 もちろん、そこには自分もカウントされている。
 よっぽど、きっちり清算したい過去でもあったのだろうか。
 それこそ夢に見るほどに。

(いや、夢じゃないらしいけど)

 だが突然、「夢じゃないですよー。早く戻らなければ楽園とかいう場所に戻ることになるぞー」と言われたところで、少女には何が何だかさっぱりである。

「失礼するよ」

 幼い容姿の割に大人びた口調の少年が部屋に入るのを確認しながら、男は顎に手をあてがい、あからさまに眉をしかめた。

「その姿でその格好をされると、滑稽というか、シュールというか……」

「……あのね。僕だって、好き好んでこんな容姿をしているわけではないんだから」

「存じております」

 苦笑いの少年に、金髪の男は淡々と返事を返す。
 だが言葉の節々に、嫌々ながらも敬うような素振りが見える。
 余程高貴な身分なのだろうか。それにしても、少年と男の会話にはおかしな部分が見受けられる。

 その姿でその格好。
 好きでこんな容姿をしているわけではない。

 妙な言い草だ。子供扱いされるのを嫌がるといった風ではない。
 少年は、男の悪態に淡々と切り返している。まるで、普段は違う容姿をしているかのような言い草で。例えるならそう、魔女の呪いで意図せず姿を変えられてしまったかのように。
 男が隠れろと、要は会わせたくないと言うのだから、どこかしら危険な存在であることに違いはないのだろうが。
 わずかばかりに身を乗り出し、少女はじっと少年の観察を続けることにした。
 二人が部屋の中央部に移動する。
 この場所からでは、金髪の男の表情は伺い知れない。
 男が何を考えているかなど、黒い背中からは何も読み取ることができない。

「どうぞ、何もありませんが」

「ああ、いいよ。すぐに帰るから」

 男に椅子を勧められても、少年はきっぱりと断る。
 ちらりと男の背中越しに窓を見詰め、少年は朗らかに笑った。

「……それにしても、見事なものだね」

 ぴくり、と。
 それまで冷静を装っていた男の肩が、小さく痙攣を起こす。男は駆け足気味に窓へと歩み寄ると、音を立て、乱雑にカーテンを閉めた。
 少年から美しい景観を遮る寸前、ベッド下の隙間から一瞬男の表情が垣間見える。
 懐かしいとも疎ましいとも形容できる顔を見せた男に、ぞくりと、奇妙な感覚が少女の背を襲った。

 もっと見たい。その顔を、私はずっと見たかった。
 傷付けばいい。私が狂うほどに焦がれ、傷付いた以上に求めてくれればいい。

(なに? 今、私は何を……)

 自分で自分が分からなくなる。
 一体何を考えていたのだろうか。
 求められたいなんて思わない、狂うほどに焦がれたことなどない。
 そんな感情、気持ち悪いだけだ。ベッドの下の暗闇で、少女はきつく自身の体を抱きしめた。

 少女の視線を拒むように、男は再び少年へと顔を向ける。
 壁に背を預け、男は二重に美しい草原を覆い隠した。

「気にしなくてもいいのに」

「あなたにお見せできるようなものではありません」

 男の声は強張っている。反対に、少年はいたって穏やかだ。

「そんなことはないと思うけどね。少なくとも、僕は美しいと思うよ」

 ベッド下に身を潜める少女も同意だった。
 見事な情景だ。見ているだけで心安らぎ、全ての罪が赦されるような気さえしてくる。青空の下に広がる緑色。丘の上に生い茂る大きな木が、風に吹かれ揺れている。
 耳を澄ませば小川のせせらぎが聞こえ、
 匠の描く絵画のように、一点の汚れもない。
 あの風景の中には穢れが存在しない。煙突も飛行機も、それどころか建物すらない。
 完成された世界だった。絵本やおとぎ話の中にしか存在しない、安らぎという言葉を体現したかのような場所。

「——持ち主が咎人であろうとも、思い出に罪はない。その記憶は、僕にも捻じ曲げることができないものだ。一点の穢れもないものを、どうして裁くことができるだろう」

 咎人、穢れ、裁く、捻じ曲げる。

 いずれも日常生活ではまず聴くことがない不穏な単語ばかり。
 ファンタジーものの漫画でも読んでいる気分だった。

「君が見せたくないというのなら、無理に暴きたてはしないよ。すまなかったね」

「それはどうも。……それで? こんな辺境の地まで、わざわざ何の御用ですか? 俺に厭味を言いに来た訳ではないでしょう?」

「厭味って……そんなつもりじゃなかったんだけどな。まあ、いいや。単刀直入に聞く。 — —の居場所が知りたい」

 名前の部分だけが、言葉として聞き取ることができなかった。
 そこだけが意味のない音となり、霧のようにすり抜けていく。
 頭に割れるような痛みが走る。声にならない悲鳴をあげ、少女は頭を抱え込んだ。
 どうしてこうも邪魔をされるのか分からないが、何がなんでも手がかりを渡す気はないらしい。一体何がそこまで自身を阻害しているのか。
 その時視界の隅に、白い蛇のようなものが見えた気がした。
 痛む額を片腕で押さえながら、床の上に伸びる白い影に手を伸ばす。

 まさか見つかるとは思っていなかったのだろう。
 青白い鱗の蛇だった。黄金色の目が、暗闇の中物騒な輝きを放っている。
 小さな小さな蛇だ。それこそ、本気でやれば握り潰せてしまいそうなほどに。
 少女の視線を察知すると、蛇は逃げようともがき始める。
 だが、少女の方が早かった。

(私は、知りたいの……!)

 ここに来てから、おかしなことばかり起きる。
 自分が自分で無くなりそうになる。
 特にあのいけ好かない金髪を見ていると、何もかもかなぐり捨ててしまいたくなる。
 どうして初対面の相手にそんな感情を抱くのか。
 少女は知りたかった。ただひたすらに、自分という存在が何なのかを。
 ——だから、邪魔をするな!
 力の限り頭の中で叫び、蛇の影を握りつぶす。
 白い影は部屋の中に霧散し、次の瞬間、嘘のように頭の痛みが引いていった。

 呆気にとられ、蛇を握りつぶした手のひらを呆然と眺める。

(……なんだったの、今の)

 痛みのあまり、幻覚でも見たのだろうか。
 だが単なる幻覚にしては、感触が生々しかった。瞳を閉ざせば、蛇の鱗の一枚一枚を鮮明に再現することができる。
 だが、少女に起こった不思議な現象など知りもせず、男と少年は何事もなかったかのように会話を続行させていた。

「君には、あの子との繋がりがある。今でもそれは切れていない。皮肉なことに、あの子は君を探している。君を探しに戻ってきた。……僕以上に、よく分かっているはずだ」

「知りませんよ。少なくとも、ここには来ていません。……もういいですか?」

 平静を装っていながらも、男の声にあからさまな怒りが滲む。
 顔を見ていなくても分かる。絶対に触れられたくない場所を、無遠慮に暴きたてられている。握り締められた男の手のひらが、彼の苛立ちを如実に表していた。
 だが、少年も追及をやめない。厳しい顔で男に詰め寄る姿は、とても子供のものとは思えなかった。

「ずっと追い続けていたのを、僕が知らないとでも?」

「……何のことでしょうか」

「もう、逢っているんじゃないのかい?」

 男が深くため息を吐く。腕を組んだ男は、淡々とした声を吐き出していった。

「知りません。はぁ、そんなに会いたいなら自力で頑張ってくださいよ。あなたなら、なんとでもなるでしょう?」

 心なしか、男の声には疲労が滲んでいる。
 腕を組む様を装って、彼をよくよく観察すれば、右腕を渾身の力で握りしめていた。
 スーツに刻まれる皺が、時が経つにすれ本数を増している。

「あのね、出来たら最初からそうしてるの。というか、既にやってるの。それでも見つからないから、不本意ながらもこうやって君に助力を」

「俺に協力を仰いだのが間違いでしたね」

「……確かに」

 少年が、肩をすくめる。年相応の笑顔を浮かべ、彼は男にくるりと背を向けた。
 ようやく帰る気になったのだろう。密やかに胸を撫で下ろせば、男の肩から力が抜けるのが確認できた。

「ねぇ、レボルト」

 知らない単語だった。そう、知らないはずなのだ。だが、知っている。
 体が激しく震えを覚えた。血の巡りが早まり、体全体が熱を帯びる。
 上がった心拍数に体が順応しきれず、えずきそうになるのを服の上から心臓を掴み、必死で押しとどめた。
 あの人は、レボルトだ。直感的に理解する。

「隠し通すのにも限界がある。少なくとも、イヴはそれを望んでいない」

 靄に阻まれ聞き取れなかったものが、今度ははっきりと聞き取れた。
 身に覚えのない名前のはずなのに、不思議とそれは体にひどく馴染んだ。
 金髪の男、レボルトの体が強張る。

「俺が何をしようが、あなたにはもう関係ない」

 レボルトの捨て台詞を笑顔で聞き流し、少年は扉を開け、光の中へと消えていった。
 訪れた時と同じように、別れもまた突然だ。
 扉が閉じれば、部屋には静寂が訪れる。
 少女が伺いを立てようとベッド下から顔をのぞかせたところで、男は壁に背を預けたまま、崩れ落ちるようにしてその場に座り込んでしまった。
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