地獄の底でふたりきり

7.灰吹きから蛇が出るU

「反抗的なところも相変わらずというか、本当に君は変わらないね」

 懐古的な色を浮かべる黒い目に、イヴは再び足を一歩後ろに下げた。
 じりじりと鏡の廊下を後ずさるたび、ブーツのヒールがコツ、コツ、と耳障りな音を響かせる。
 会ったことなどないはずだ。赤毛の男だって、レボルトにしてもそうだ。

「わ、私は、あなたたちなんて、知ら、ない」

 首を横に振り、震える声で紡ぎながら、イヴは再度後ずさる。
 懐かしいと感じたとしても、出会ったことなどない。
 全て思い違いに違いない。
 帰ると言われても、自分の家以外の場所は思い浮かばない。
 名が代償だ、戻る場所はない、愛されることなどない、そんな意味の分からない言葉の羅列を素直に信じられるほど、イヴは単純ではなかった。

「だろうね。僕も彼らも、『君』に会うの『は』正真正銘、間違いなく初めてだよ」

 靴の踵が何か固いものに当たる。
 視線はその場から一歩も動いていない少年を見据えたままで、腕を動かし、そっと背後の固い物体に触れる。つるりとした感触だ。
 そこにあったのは、壁だった。ちらりと、一瞬少年から視線を外す。
 さっきまでなかったはずの鏡の壁が、少年とイヴのいる空間を閉ざしていた。
 そこに廊下はすでになく、文字通り鏡張りの密室と化している。
 知らぬ間に、逃げ道はとうに閉ざされてしまっていたのだ。
 鏡の壁に、少年の微笑が映り込む。
 勝手に道が増えたり減ったりする不思議空間なのだ。今更壁が一枚二枚増えたところで、別段驚きはしないが、この状況に馴染んでしまっていることだけが、ただただ無性に悔しかった。

「妙に、引っかかる物言いをするのね」

 かろうじて使っていた敬語は、いつの間にか消え去っていた。
 相手を気遣う余裕がなくなっていた、と言う方が正しいのかもしれない。
 鏡の壁に背を預けたまま、イヴはきつく手のひらを握りしめる。

「そうかもしれないね。……説明してもいいのだけれど、今の君には理解出来るかどうか」

 少年は、苦笑を浮かべて肩をすくめる。
 側から見れば馬鹿にしているようにも取れるが、少年はいたって穏やかだ。

「それでもいいというのなら、説明してもいいけれど」

「何も教えてもらえないよりはマシだわ」

 例え話の内容がさっぱり理解出来なかったとしても、聞いておけば何かの拍子に役立つかもしれない。けれど、少年の言葉はイヴの理解の範疇外だった。
 どこかで前に会ったことがあるのかと思えば、そうではないという。
 かといって会ったことがないのかと聞けば、それも違うと言う。

「君は確かに以前にも僕たちと会ったことがある。でも僕たちと話をしたのは、君であって君じゃない」

「……聞いておいて悪いけど、全然分からない」

「だと思った」

 困ったように笑う顔に、イヴを責める気はないようだ。
 背の後ろで腕を組む少年は、不思議なことに楽しそうに見える。

「楽しそうね」

(私は全然楽しくないけれど)

 目覚めたら見知らぬ場所で、その上自分の名前もここに来る前後の出来事も曖昧で、名前に至っては無くしたと言われる始末だ。この少年や赤毛の男には会ったことがあると以前言われ、挙げ句の果てにレボルトには懐かしさまで感じてしまっている。
 全く心中穏やかではない。むしろこれ以上ないほどにささくれだっている。

「ああ、楽しいよ。動機はともあれ、君が戻ってきてくれたことは結構嬉しいんだ」

 少年はこちらの緊張など知らぬとばかりに破顔する。
 それまで大人びた印象を抱かせていた少年が、初めて歳相応に映った。

「喜んでいるところ悪いけど、私は帰るから」

 水を差すようで悪いが、こんな気味の悪い場所に長時間いたくはない。
 戻る場所がない、愛されないなどと言われても簡単に信じられるものではない。

「君はもう戻れない。さっき説明しなかった?」

 首を傾げ、少年は眉根を寄せている。
 機嫌を損ねているのではなく、純粋にイヴの言動を疑問に思っているようだ。

「でも、レボルトは」

「戻れると言っていた?」

 言葉に詰まる。

「そうだね。レボルトになら、もしかしたら出来るのかもしれない。でも、そんなことをして無事でいられる保証はない」

 汗を額に浮かべ、真っ青な顔で床に崩れ落ちたレボルトを思い出す。
 すぐに治るとは言っていたが、やはり無理をしていたのか。
 何がレボルトをそこまで突き動かしているのか。どうしてそこまで無理をしてでも、イヴを救おうとしてくれているのか。

「前回とは状況が違うんだ。……僕だって、本音を言えば帰してあげたいんだよ」

 そもそも、イヴにとってのレボルトは、そしてレボルトにとってのイヴは、一体どういう存在なのか。「無事でいられる保証がない」何らかの手段を使ってでも、ここから逃がしたい理由が有る。
 別れ際、レボルトは何と言っていただろうか。

「分からない。そこまで、してもらう理由がないわ」

 ゆっくりと、一音一音噛み締めるようにして吐き出していく。

 少なくとも、イヴに思い当たる節はない。何かとても大切なことを忘れたままでいる。

 戻ってきたということは、前にも一度ここに来たことがあるということなのだろう。
 覚えはないが、そういうことらしい。前回、レボルトはイヴをここから、正しくは「楽園」から逃がしたことがある。少年が「咎人」と言っていたことからも明らかだろう。
 けれど、イヴは戻ってきてしまった。逃がしてくれたのに、なぜ自分はわざわざ逃げ道を潰してまで戻ってきてしまったのだろうか。
 考えれば考えるほど謎は深まっていく。出口のない迷宮に迷い込んだ気分だ。

「君にはなくとも、レボルトにはあるんだ。君は名を与えてしまった。それにどんな意味があるのかも知らず、レボルトの「特別」になってしまった」

「とく、べつ」

「そう、特別。君がいなくなってからも、彼にとって名を呼ばれたいと思える人は一人だけだった」

「……ここでは、随分名前が大切にされているのね」

 くだらない、と思った。
 名前には、名付け人の願いが込められている。大成して欲しいだとか、可愛い子に育って欲しいだとか、その願いは様々だが、昔から名前を呼びあうことで、人と人とは距離を縮めてきた。
 名前が大切なのは分かる。けれど、なくなったとしても死にはしない。
 今だって、眼前の少年の名前を知りはしないが、問題なく会話出来ている。
 鏡の中に映る自分が、皮肉気に口角を釣り上げた。赤茶色の長い髪が、微かに揺れた。

「名前なんて、さして重要なものでもないでしょうに」

 少年が、息を呑む。ひゅう、という空気を吸い込む音が狭い鏡張りの部屋の中こだました。
 心底驚いたと言わんばかりに黒い目を見開き、少年はしばし無言になる。
 この場所は静かだ。二人ともが口を閉ざせば、甲高い耳鳴りの音だけが鼓膜へと差し込むだけの何もない空間。
 視線を下げれば、地面に写り込んだ自分の瞳と目が合った。
 「特別」と聞いて、少しだけ舞い上がっている自分がいた。

 嬉しい。どうして? だって、私だけが特別と思い込んでいるわけじゃなかったから。

 様々な意思が混ざり合い、どれが自分の本心なのか分からなくなってくる。

 全然嬉しくなんかない。むしろ、気味が悪い。そんなことはない。だって、『私』が戻ってきたのは——

「その言葉を、君の口から聞くことになるとはね」

 独り言のように呟かれた、少年にしては低いその声に、イヴははっと顔を上げる。
 視線の先、先ほどまで少年がいたはずの場所に、一人の男が立っていた。
 服装も顔立ちも、少年とよく似ている。けれど、眼前にいるのは少年ではなく、紛れもなく青年と形容されるべき見目の持ち主だった。年齢は二十代後半か、三十代前半だろうか。
 身長はイヴよりも高く、赤毛の男よりは低い。
 容姿が整っていながらも、どこか平凡さを漂わせる男は、寂しげに笑っていた。
 懐かしむ、というよりは愛娘を見つめる父のような目で、少年は離れた場所からまっすぐにイヴを見下ろしていた。

「何を——」

「おい」

 遮るようにして、重低音がイヴの鼓膜を揺らす。
 声に意識を奪われた一瞬の隙に、男は姿を消していた。再び姿を現した少年は自分の姿が変化していたことを知ってか知らずか、実に愉快だといった風に意地の悪い笑みを浮かべ、声の聞こえた方角を睨みつけていた。

「こいつに余計なことを吹き込むな」

 声の先、イヴが背にしているのとは丁度反対側の壁を背に、一人の男が立っていた。
 王子様のような服に身を包んだ、赤毛の男だ。それは、イヴの手を無理やりに引いていたあの時の男に相違なかった。腕を組み、男は威圧的に少年を睨みつけている。
 自分に向けらているわけではないにも関わらず、イヴは小さく息を呑んだ。
 だが、殺意のこもった眼差しを受けているはずの当の本人は、相変わらず飄々としている。
 どこから入り込んだのか、という問いは愚問だろう。

「なんだ、つまらない。意外に早かったね。もう少しゆっくり来てくれても構わなかったのに」

「ほざけ」

 わざとらしいまでに突き放した物言いにも、少年は笑みを崩さない。

「ああ、嘆かわしい。なんて言い草だろう。僕も「王」の一部だということを、忘れてはいないかい?」

 男の無表情に皺が刻まれる。
 目だけで人を殺せそうな迫力だが、少年には全く効果がないらしい。
 むしろ、背後で事態を眺めているイヴの方にダメージが流れている。
 少年は王の一部とは言うが、どういう意味なのか。一瞬姿を見せた男性と何か関係があるのだろうか。

「あの、王って」

「お前は少し黙っていろ」

 ぴしゃり、と赤毛の男がとがめるように口を開く。
 だがそこに、少年に対する時のような手厳しさはない。
 言い草は突き放しているようにも思えるが、無表情ながらもどこか柔らかさを含んでいるように見えた。

「余計なことは考えなくていい」

「いいことを教えてあげようか。最近地上では君みたいなのを『モンスターペアレント』って——」

「俺は、こいつの、保護者じゃ、ない」

 笑顔のまま皮肉をぶちまけた少年に対し、男は一音一音をわざとらしく強調し舌打ちをした。よっぽど保護者と言われるのが地雷だったらしい。

「……あとは俺がやる」

「はいはい、分かったよ。僕はお役御免というわけだ」

 軽口を叩くと、少年は鏡に片方の手のひらをあてがった。
 それと同時に、ぐわん、と手のひらに合わせて鏡面が形を変える。

「ああ、そうだ」

 そのまま鏡の中に姿を消そうとした少年は、ひょい、と凹んだ鏡面の縁を持ち、開けられた穴の向こう側から顔だけを覗かせた。

「これは王の意思とは無関係の、僕個人の希望なのだけれどね。——くれぐれも、手荒な真似は避けるように」

「……俺だって、出来るものならそうしたい」

「なら、良かった」

 男の返事に微笑みを返し、少年は今度こそ完全に鏡の中へと姿を消してしまう。
 同時に、イヴと赤毛の男の背後にあった壁も消え去った。
 突然のことに、無様にも尻餅を付き座り込んでしまう。消すのなら消すで、前もって宣言して欲しいものだ。
 壁が消えれば、最初に訪れた場所とよく似た回廊が姿を表す。
 鏡作りの廊下の中に、二人きり。
 状況も相まって、余計に既視感を覚えた。

「大丈夫か」

 少年の態度に慣れているらしい男は腰をかがめ、イヴに手を差し出した。
 男に動揺は見られない。それは、この男が間違いなくあちら側の人間であるという証明でもあった。そもそも、本当に人間かどうかすら怪しい。

(それは私もか)

 少年の言葉を鵜呑みにするならば、イヴとてただの人間ではない。
 覚えのない記憶が頭のなかに混在している時点で、相当おかしいのは確かなはずだ。
 幻覚まで見えているのは、自分でもかなりキていると思う。
 しばし手を取ることを躊躇っていると、男は自重気味な笑みを浮かべながら大人しく手を引いた。

「ま、待って」

 咄嗟に手を伸ばし腕をつかめば、男の動きが止まる。

「別にあなたのことが嫌いだとかそういうことじゃなくて、ちょっと混乱してただけっていうか、その」

 目が合った瞬間、言葉尻が濁ってしまう。見上げた先、熱を孕んだ赤い目がまっすぐにこちらを射抜いていた。
 執着の色が覗く目に、一瞬腕を掴んだことを後悔してしまう。
 離そうとすれば、逃がさないとばかりに今度は向こうから腕を掴まれた。
 そのまま強い力で腕を引き、男はイヴを立ち上がらせると同時に腕の中に囲い込んだ。

「許してくれとは言わない」

 耳元で聞こえる心の底からの懺悔は、今している行為に対する謝罪ではないように聞こえた。「離して」という言葉は男の抱擁の強さに掻き消える。尋常ではない力を感じ、イヴはそのまま男の言葉に耳を傾けることにした。
 甘えるように首元に顔を埋められれば、赤い短髪がちくちくと皮膚を刺激する。

 体に回された腕に力が込められた。

「側にいてさえくれれば、それだけで十分なんだ。だから頼むから、俺と一緒に来てくれないか」

 どうしてこんな矮小な小娘相手に、大の男が子供のように謝罪をしているのか。
 この男だけではない。レボルトも、あの少年も、どうして気遣ってくれるのかが分からない。何も特別なところなんかない。特別愛されるような人間じゃない。本当に、平々凡々な人間なのだ。
 絶世の美女というわけでも、格別頭がいいわけでもない。
 こんな扱いは、今までの人生で一度もされたことがない。
 暴漢相手にならもっと必死に抵抗していたが、不躾な手つきというわけでもない。本当に、心の底から懇願しているだけなのだ。
 そう信じさせるだけの必死さが、その時の男にはあった。

「……悪い」

 名残惜し気に、男は抱擁を解いた。

「帰るぞ。こんな場所にこれ以上いることもない」

「悪いけど、私は……地上、に帰るから」

 言っておきながら、地上という言葉に非常にひっかかりを覚えた。
 だが、家と言えばこの男は誤解しそうだった。ぬか喜びさせるのも申し訳ないので、丁重にお断りしておく。
 男は踏み出した足を止め、その場から動こうとしないイヴを振り返った。

「もう戻れない。あいつにもそう言われただろう。地上に、お前の居場所はない。お前自身が消してきたんだ。恨むなら戻ってきた自分自身を恨むんだな」

「嫌です。何を言われようが私は帰るから」

 帰る場所がないと言われても、にわかには信じ難い。
 それに——

「一緒に来いって言われても、どこに行くのか分からない、それもほぼ初対面の人にほいほいと付いていくわけないでしょう!?」

「……そうか、覚えていないんだったな」

 困惑の中にどこか安堵の混ざった声音で、男は一人ごちる。
 その隙に踵を返し逃亡を図るが、赤毛の男は目ざとくイヴの動きを捉えていた。
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