地獄の底でふたりきり

18.蛇神憑きT

「私、あなたのことが好きよ」

 その言葉を、何度レボルトへと捧げてきたことか。
 数えることすらも愚かしくなるほどに、イヴはレボルトに対し好意の言葉をぶつけてきた。

 最初は、単なる意趣返しだった。
 常に飄々としている男が、小娘の他愛ない愛の囁きにだけは動揺したかのような素振りを見せる。人を見下した笑みを浮かべる顔が、自分にだけは無防備な顔を見せる。
 悪魔などと言われる男の側に、殺されることもなくい続けることができている。
 そんな瑣末なことに、酷く優越感を覚えていた。

「そうですか。俺は嫌いですよ」

 返事が返ってくることに、これといって期待はしていなかった。
 だから、決まりごとのように返される淡々とした拒絶にも、特に動揺はしなかった。
 本当に、最初のうちは全く気にしていなかったのだ。

 いけないことをしていることに対する、微かな高揚感。
 嫌われ者の蛇の側にい続けられることに対しての、ほんの少しの自尊心。

 それだけだと、思っていた。

「それで?」

 柔らかな声が、耳元で続きを急かす。
 どこかくすぐったさを感じ身をよじれば、咎めるように背後からそっと体を抱きしめられた。決して逃がさないと言わんばかりに体に回された腕に、小さく息を吐く。
 声の主を確かめようと瞼を押し上げようとするが、体はイヴの言うことを聞いてはくれなかった。果てのない暗闇が、瞼の裏に広がるばかりだ。
 だが、不思議と不安はない。体を支える胸板を確かめるように頬ずりをすれば、無意識に安堵の息が漏れた。

「ん……ぅ」

「……イヴ様」

 声の主は微かに笑いながら、そっと続きを促す。
 こくりとイヴが小さく頷けば、男は少女の髪に触れるだけの口付けを落とした。
 そんな些細な所作が、イヴには酷く嬉しく思えた。

 明確に、本当の意味でレボルトに好意を抱き始めたのはいつだっただろうか。
 思い出されるのは、それまで兄だと慕っていた相手が、未来の夫なのだと知らしめられた日のことだった。
 自分の存在そのものが、アダムの妻になるためだけに生み出されたものなのだと聞かされた瞬間、何を信じればいいのか分からなくなった。
 異常なまでにまっすぐに向けられる愛情が全て、「そういう風になる」ように最初から仕組まれたものだった。
 真実を知った時から、全てが作り物に思えてならなかった。
 だって、そういう風になるのならば、愛されて当たり前ではないか。
 そんなものは『愛』なんて言わない。
 少なくともイヴは、本来夫となるべき相手を心の底から愛せそうにはなかったし、実際、どこかアダムに対して哀れみの情すらも抱いた。
 作り物の愛なんて、気持ちが悪い。
 その時からだ。レボルトへ抱く感情が変わったのは。

「どうしたんですか。珍しく辛気臭い顔をして」

 その日も、イヴを出迎えたレボルトの態度はこれといって変わりなかった。
 心底どうでもよさげにイヴに視線を向けては、すぐに逸らしてしまう。
 そのことに、酷く安堵した。

「……私、あなたのことが好きよ」

 レボルトの横で膝を抱え、身を寄せる。
 肩に乗せられたイヴの頭に、レボルトは眉を顰めはしても反抗はしなかった。
 これまでの経験から、抵抗しても無駄だということは理解しているのだろう。
 されるがままになっているレボルトに、イヴは小さく息を吐き出しながら、ゆっくりと瞼を閉ざしていった。耳をすませば、足元の草が凪ぐ音が聞こえてくる。
 心地のよい微睡みに、イヴは全てを忘れただ溺れていたかった。
 この感情だけは、確かに本物だ。
 そんな風に、ただ自分の中に根付く真実に縋っていた。
 だって、そうだろう。レボルトへ向ける思いがなくなってしまえば、本当に何も無くなってしまう。
 そうなるように作られたのだというのなら、勤めは果たそう。
 けれど、この心だけは確かに自分のものだ。誰にも文句など言わせない。
 応えてくれとはいわない。ただ、愛を囁かせてくれるだけでいい。
 その時が来るまで、側にいられればいい。

 そう、思っていたはずなのに。
 どうして、最後に期待なんてさせるのか。

「わたしは、わるく、なんかない」

 吐き出す声は、酷く震えていた。体を抱きとめる力が強まったのを合図に、イヴは衝動的に、縋るようにして思いを吐露していく。
 アダムの妻として、きちんと責任は果たそうと思っていた。
 そのはずなのに、最後の最後でレボルトはイヴに期待させるようなことをした。
 諦めようと思っていた。だって、責任は取らなくてはいけない。アダムの妻として作られたのだというのならば、その責務だけは果たさなければいけない。
 それなのに、どうして、なんで。
 溢れ出す思いは、どこまでも自己中心的だった。

「わた、し、ちゃんと、せきにん、はた、さないと。……でも、わ、わたし、だめ、だから。でも、わたし、レ、ボル、トが、す、すきで、でも、だって、けど、わたし」

 何もかも、酷く歪んでいる。
 目が開かないことだけが、イヴにとって唯一の救いであった。
 前後不覚の状態だからこそ、イヴは何も吐き出すことが出来ている。受け止める男は、何も言わない。ただ黙ってイヴの言葉を待つだけだ。

「……わた、しは」

 イヴの幸せを願うと、『責任』という呪縛から解き放とうとした男。
 そんな思いを踏みにじってでも、イヴはレボルトと一緒にいたかった。
 もう何もいらない。ただ、レボルトがいてくれればそれでいい。唯一自分の意思を貫き通して、選び取ったものに、イヴはただ縋っていたかった。
 楽園と地上の狭間へと迷い込んだその瞬間から、いや、地上へと逃げ込んだ時からすでに、イヴは壊れきっていた。
 無責任にレボルトを恨み、どうして奪ってくれなかったんだと煮え切らない態度を続ける男に対して怒りの情すらも抱いている。

「苦しいのなら、命じればいい」

 男の言葉を合図に、それまでぴくりとも動かなかった瞼が徐々に押し上げられていく。
 それまで自身を囲い込んでいたのがレボルトその人だったのだという事実に、イヴはさほど驚きはしなかった。
 レボルトの背後に広がる光景に、軽くデジャヴを覚える。
 白い部屋だ。何もない、小さな空間。小さな部屋の中、壁際に置かれたベッドの上に、たった二人で座り込んでいる。
 イヴの目尻に溜まった涙を舌で舐め取るさまを、イヴはどこか夢見心地に呆然と見守っていた。夢と現実がない混ぜになり、自分が何者なのかすら分からなくなってしまう。
 細められた黄金の目は、イヴを捕らえ離さない。身をかがめ、イヴに唇に触れるか触れまいかという距離で、蛇はひたすらに甘い言葉を囁き続けた。

「俺に壊れて欲しいんでしょう? ならば、ただ命じてくださればいいんです」

 呆然と自身を射抜く主人に対し、蛇は狡猾に嗤う。

「願いを口にするだけでいい。どんな横暴な望みだろうと、なんだって叶えられる。あなたには、俺を従える権利があるのだから」

 従える、権利。
 イヴの顎を持ち上げ、親指でその唇をなぞりながら、レボルトはただ待っていた。
 主人の目が、せわしなく揺れる。

「……なんでも、いいの?」

「ええ、何でも」

 珍しく柔らかな笑みを見せる男に、イヴは気分を高揚させた。

「……ずっと、一緒にいて。もう二度と、離れないで」

 イヴはレボルトの腕の中で体の向きを変え、その首に自身の腕を回した。
 胸を押し付け、抱きつくような形となり、熱い息を吐く。
 蛇の目が、妖しく煌めきを放つ。

「イヴ様が、それを望むのなら」

 返された肯定に、イヴは酷く安堵した。
 最初から、ただ命じればよかったのだ。友人でいたいなどという綺麗事は早々に棄て去り、その身の全てを捧げろと請えばよかった。
 そうすれば、きっとこんなに遠回りをせずに済んだのだ。
 踏ん切りがつかず暴君になりきれなかった過去の自分に、愚かさを覚える。

 蠱惑的な視線を向けてくるレボルトに、イヴは半ば無意識のうちに体重を掛け、その場にレボルトを押し倒していた。
 男の上に馬乗りとなり、じっと眼下のレボルトの顔を凝視する。
 相変わらず、眼下のレボルトは無駄に整った顔をしていた。
 イヴの恋心に無視を続け、すました顔をし続けていた忌々しい顔だ。
 イヴを見上げる顔には相変わらず動揺の色は見えず、むしろレボルトは心底上機嫌にイヴの所作を見守っていた。

「すき」

 だってそれ以外、何もないから。

 レボルトを好きだという感情に縋らなければ、どうしていいのか分からなくなる。
 作り物の「愛情」という箱の中で生かされてきた少女にとっては、ただ眼前にある穏やかな笑みだけが真実だった。

「好き、なの」

 稚拙な愛を囁きながら、腰を浮かせ、レボルトにきつく抱きつく。
 意図的に男の胸板に自身の胸を押し当て、これで少しは煽れているのだろうかと、ちらりとレボルトに視線を向ける。
 男に対して、愛を囁かれたことはあっても、自分からベッドの上で囁いたことなど一度もない。これで合っているのか、何か場違いなことをしてはいないだろうかと不安になってしまう。
 思えば、これまでレボルトには不安にさせられてばかりだった。
 追いかけているのはイヴの方で、いつだって裏切られてきた。

「知って、いますよ」

「……ひ、ゃぁ!?」

 イヴの心配を他所に、見上げた先のレボルトの瞳は紛れもない情欲の色を灯していた。
 言うと同時に、レボルトがイヴの腰を掴む。
 浮き上がっていた腰を強制的に体に密着させられる形となり、イヴは反射的に声を上げた。
 何か硬いものが、ドロワーズ越しに当たっている。
 それが何なのか分からないほど、イヴは純情にはなりきれなかった。

「ちょ、ちょっと、待っ……ぅ!」

「自分から誘っておいて、随分と酷なことを言うんですね」

 顔を赤くし視線を泳がせるイヴに、レボルトはにたにたと笑いながら無慈悲な言葉を投げかける。

 それを言われてしまうと、言葉に詰まってしまう。
 しばしどうすべきかと固まっていると、気付いた時にはぐるんと視界が反転していた。
 先ほどまで眼下にあったはずのレボルトの背中越しに、シミ一つない天井が映る。

「俺が、欲しいんでしょう?」

 イヴの首筋を舐めあげながら、レボルトは遠慮なくイヴの体を暴きたてていく。
 コルセットの紐を緩め、ドレスの裾をたくし上げては足に指を這わせていくその所作に、イヴは必死に口を引き結んでいた。

「……イヴ様」

 どこか切なげに名を呼びながら、レボルトはイヴの身を蝕んでいく。
 ボタンを外し、胸元をはだけさせたのを合図に、レボルトは口付けの場所を徐々に下げていく。首筋から肩へ、肩から鎖骨へ、鎖骨から胸元へ。
 口付けというよりは、マーキングのように執拗にイヴの体を嬲り、赤い華を咲かせていく。

「イヴ様、イヴ様」

「ひっ、う、あ……んぁ……っ……ん」

 身をよじり、瞼を閉ざし、必死に襲い来る感覚から逃れようとするイヴの姿を瞳に焼き付けながら、レボルトは無心にイヴの名を呼んでいた。

「イヴ様」

 明確に求められているのだと、他でもないレボルトに欲されているのだという感覚が、イヴの中に悦びの感情を湧き上がらせていく。
 これまで頑なに拒まれ続けていた相手に、求められている。
 ずっと思い続けていた相手に、触れられている。
 それだけで、イヴの背には震えが走った。だが、同時にどうしようもなく恥ずかしかった。そう何度も呼ばれ続けていると、嬉しさのあまりおかしくなってしまいそうだ。

「イヴ、様」

 頼むから、吐息交じりに苦しげに囁かないで欲しい。
 指を噛み、何とか気を紛らわそうとするも、体に触れられるたび、抑えきれない感情が爆発しそうになってしまう。

「……んぅ、や、……っあ」

 絶えず聞こえてくる衣擦れの音に、一体どういう状況なのか、閉ざされた瞼の先で一体何が行われているのか、好奇心が刺激される。微かに瞼を押し上げ、事態を把握しようとして、見なければよかったと、イヴは激しく後悔した。
 欲に濡れた目で、イヴの本性を暴き立てている。吐き出される言葉は砂糖菓子のように甘く、イヴの体に絡みついて離れない。

「あなたは、何も悪くない」

 蛇の囁きは、残酷なまでに甘やかだ。
 歌うように主人を擁護する言葉を吐き出し、その身に愛の証を刻み込んでは、ドロドロに溶かしこんでいく。
 理性と欲望の狭間でもがき苦しむ主人を、地獄の底に引き摺り下ろし、完膚なきまでに陥落させるために。
 そこに一切の躊躇いはなく、あるのはただ一人の人間の少女に対する、異様なまでの執着心だけだった。

「悪いのはあなたに何も知らせずにいた、——の方でしょう? イヴ様は何も悪くない。あなたが負い目を感じることは、何もないんです」

 イヴの身を蝕みながら、毒蛇は戯言を吹き込んでいく。

「ああ、でもそうですね。……どうしても、辛いというのならば」

 はだけ、露わになったイヴの腰に舌を這わせながら、蛇は酷薄に笑んだ。

「全て、忘れてしまえばいい」

 おもむろに顔を上げ、舌なめずりをして見せた男に、ぞくりと背に震えが走る。

「わす……ぅ……ぁんっ、れ……ぁっ、る……?」

「俺以外の全てを、忘れてしまえばいいんです」

 忘れる? レボルト以外の全てを?
 常識的に考えればおかしなことを言われているはずなのに、酷く優しい口調で諭してくるレボルトに、それが正論であるかのような錯覚を覚えてしまう。

 今この身に触れている男は、一体誰なのだろうか。
 今まで頑なに嫌いだ消えろとほざいていた面影など、どこにもない。
 無心にイヴの身を穢そうとしているのは、本当にイヴの知っているレボルトなのだろうか。

 大事なことがあったはずだ。
 やらなければいけないこと、果たさなければいけなかった責任、帰らなければいけない場所があったはずだ。
 いや、それ以前に。
 前にも、こんなことがなかっただろうか。
 レボルト以外の誰かに、こうして組み敷かれたことが。

「忘れてしまえばいい」

 忌々しげに細められた目に、何もかもが曖昧になる。
 分からない。もう何も、分からない。

 何も、思い出したくなんかない。

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