地獄の底でふたりきり
21.地獄の底でふたりきり
何かが、身体に絡み付いていた。
姿すらも定かではない何かが、イヴの身を背後から抱きとめている。
一筋の光すらも見えない深い深い闇の底、影は甘やかに囁く。
あなたの望みを叶えよう。何をためらう必要がある。あなたには、俺を従える権利があるのだから。
イヴの身体を柔らかく抱きとめていたそれは、イヴの腕を伝い、やがては首へと手を掛ける。
絡みつき、離れなかった。金色の目をした、黒い影が。
図らずとも自らを下僕と呼称する男と同じ目をした闇の塊が、イヴの首を優しく締め上げていく。
――俺が、欲しいんでしょう? なら――
それは掠れ上ずった声で、イヴを急かす。
空いたもう片方の腕で愛おしげにイヴの腹を撫でながら、ぎりぎりと締め上げていく。
狡猾に、それでいて大胆に。毒蛇の牙は、どこまでも甘やかに。
――俺と、同じ場所まで堕ちてください。
「は、っ、――!!」
纏わりつく邪悪な気配を振り払うようにして、イヴは勢い良く体を起こす。
目を見開き、荒んだ息を整えるため、ぜえはあとしつこいまでに深呼吸を繰り返した。
だが、視界に飛び込んでくるのは先の見えない闇などではなく、どこまでも澄んだ不気味なまでのまどろみだった。窓から差し込む光は暖かく、春の陽の日差しを思わせる。
部屋を満たすのは、時計の秒針すらも響かない静寂。
その静けさの中を、イヴの荒んだ呼吸音が駆け抜けていく。
なんだ、夢か。
窓から差し込んでくる柔らかな陽光に、イヴのこわばっていた肩から徐々に力が抜けていった。
厭な、夢だった。
悪夢なんて表現では生ぬるい。夢にしては妙に、感触に生々しさがあった。
ベッドの上に座り込んだままおもむろに首をさすれば、ついさっきまで首を締め上げられていたかのような息苦しさがある。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出していく。
幾度かそれを繰り返せば、体は自然と落ち着きを取り戻した。
そうして改めて自身が眠っていた部屋を見つめ直せば、不意に違和感に気付く。
自分は眠る前、こんな部屋にいただろうか、と。
(何か、違う気がする)
落ち着いた部屋だ。部屋の中央奥、扉と対になる場所には外を一望できる窓がある。
ほんの少し薄黄の混じった白い壁、アンバーの床、壁沿いに取り付けられたイヴの身長より頭一つほど高い本棚には、イヴが好んで読んでいたシリーズ物の小説がびっしりと並んでいる。
ふと枕元に視線を落とせば、見覚えのないクマの人形まで置かれていた。
何かがおかしい。眠る前は、こんなに生活感のある場所ではなかったような。
イヴの記憶にあるのは、窓と必要最低限の家具しかない殺風景な白い部屋だ。
それが、どうしてこうも生活臭を感じる場所になっているのか。
――というか、何かが足りないような。
そこまで考えて、はたと気付く。
「レボっ……! ぎやぁっ!?」
急いでベッドから降りようとして、シーツに足を取られてしまう。
素っ頓狂な悲鳴を上げると同時に、イヴは無様にベッドから転げ落ち尻餅をついた。
どうして忘れていたのだろう。涙目で身を起こしながら、まとっていた黒のキャミワンピの上から腰をさする。何もかも夢かと思った。だが奥から湧き上がってくる甘い鈍痛は、ベッドからの落下のものとは程遠い。
(……ゆ、夢じゃないのよね)
冷静に自分の体を見下ろせば、イヴの考えを肯定するかのようにいたるところに情事の痕跡が残されていた。咄嗟に床の上に散乱していた、先ほどイヴの足を掬った憎っくきシーツで体を覆い隠す。肩がむき出しになっているよりは、まだマシに思えた。
昨夜の情事を思い返せば、我が事ながら死んでしまいたくなる。穴があったら入りたい気分だ。
これが所謂賢者タイムとかいうやつなのかと、うんうん頭を捻る。これからどんな顔をしてレボルトに会えばいいのか。
だが、同時に残されたものに安堵したのも事実だった。
夢などではない。昨夜の出来事は、確かに現実のものだった。
会いたい。会いたくない。会いたい。でも恥ずかしい。
そんな葛藤を何度も繰り返しているうちに、扉の向こうからは徐々に足音が近付いてきた。
じっと緊張から扉を凝視してしまう。
顔をのぞかせたイヴと揃いの黒のスーツをまとった金髪の男は、イヴの百面相を見るや否や、人を小馬鹿にしたように溜め息を吐いた。
イヴの記憶の中にあるレボルトと寸分違わぬ反応をする男に、安堵する。
床の上に座り込むイヴに近付き、レボルトはイヴの眼前で静かにその長い足を折り、片膝をついた。その様は、不遜な男にしては珍しく「下僕」という呼称に相応しい振る舞いに見える。
だが、紡がれる言葉は以前と何も変わらない。
変わらないことに、安堵した。
「なにをしているんですか、あなたは」
「……あー、いや、その、これはちょっと、いろいろある、っていうか……」
「色々、ねぇ。どうやったらそんなに見事にベッドから落ちることが出来るんですか?」
「そんなの私が知りたいわよ。……レ、レボルトこそ」
差し出された手をシーツの間から掴みながら、イヴはレボルトの小綺麗な顔を睨み付けた。
「不安に、させないでよ。……また、置いていかれたのかと思ったじゃない」
「行きませんよ」
手を握る力が強くなる。片方の腕に乗せられたイヴの手を両手で包み込みながら、レボルトは端正な顔に微笑を浮かべた。
陽の光に照らされた暖かな室内で、一瞬金色の目が不穏に輝く。
「言ったでしょう? もう二度と、あなたの側から離れないと」
「……そう、だったわね。……でも、蛇は嘘吐きなんでしょう?」
「さあ、そんなこと言いましたかね?」
「言ったわよ!」
前のめりに詰め寄れば、レボルトは子供っぽく目を細め、声を上げ笑う。
やけに上機嫌なレボルトを、イヴはぽかんと呆気に取られ見つめていた。
「聞きたいことも色々あるでしょうが、まずは朝食を。……食べられそうですか?」
「……軽いものなら」
「そうですか。では、こちらへ」
「――待って」
レボルトに腕を引かれそのまま立ち上がろうとするのだが、上手く足が動いてくれない。
イヴの手を引きそのまま歩き出そうとしていたレボルトも、イヴに呼び止められるがままに再びその場にしゃがみ込んだ。
下を向き、顔を赤くし小刻みに震えるイヴの顔を、レボルトは素知らぬ顔で覗き込んでいる。
おそらく、というよりどう考えてもレボルトのせいだ。正確には、昨晩の痴態のせい。
自覚すればますます顔を見辛くなる。近付いれくるレボルトの顔から必死に視線を逸らしながら、イヴは必死に目を瞑り、なんとかレボルトの顔を直視しないように抵抗していた。
「どうかしましたか?」
「……あの、言いにくいんだけど」
「なんですか」
「……こ、腰が。……その」
「ああ」
レボルトの気配が遠ざかっていく。
かと思えば次の瞬間、イヴの体は巻き付けたシーツごと宙に浮いていた。
すっぽりとレボルトの腕の中に抱き上げられ、そのままどこかへと連行されていく。
シーツを取り上げられなかったことを幸と喜ぶべきか、ずかずかと見慣れない家の中を闊歩していくレボルトの胸の中で、イヴはただ体を固くすることしかできない。
「今更何乙女な反応してるんですか。生娘でもあるまいし。……というか、昨日と反応が違いすぎませんかね。俺には今のあなたが、自分から腰を振っていた人と同一人物には思えないんですが」
「何言って!? あ、ああああ、あ、あの時は頭に血が上ってたっていうか、どうかしちゃってたっていうか!? ちょっとイっちゃってたっていうか……。我ながらあれはどうかと思ってる……って、それを言うならレボルトもでしょう!? あなたこそ別人みたいだったじゃない!?」
「そうですかね。俺はそんなに変わっていないと思いますが」
「……ぜ、全然違ったと思うんだけど」
気のせいではなく、本当に別人のようだった。
今のレボルトは、イヴの知るそれとほぼ同じだが、眠る前に見たレボルトはこんなに淡白ではなく、もっと陰湿で、邪悪で、それこそ――。
「……あ」
階段を降り、レボルトが向かっていく方向から漂ってくる美味しそうな匂いに、無意識に声が漏れ出た。
匂いを感じてしまえば、体は純粋に空腹を訴え始める。不思議な話だ。あの迷宮にいた間は、どれほど疲れていようとも空腹感を覚えることはなかったというのに。ぐぅと、イヴの腹部から空腹を訴える音が響く。顔を赤らめ、しずしずと頭上を見る。目が合うと同時にレボルトは喉を震わせ、小さく笑い声を漏らした。
イヴを抱きかかえた状態で器用にも片手で扉を開け、レボルトは頑なにシーツに包まっているイヴをテーブルへと着かせた。
イヴが眠っている間に用意していたのだろうか。
未だ思考が鈍っているイヴを尻目に、レボルトはてきぱきと食卓の準備を進めていく。
併設された小さなキッチンから皿を持って現れたレボルトは、あまりにもイヴのイメージに合ったものと乖離している。日常の中にレボルトがいるという違和感。
それは気持ち悪くもあり、むず痒くもあり、なによりも嬉しかった。
イヴの中でのレボルトという男は、日常生活からもっとも遠いところにいる存在だった。
晴れた日の午後、気まぐれに結んだ子供っぽい約束のためだけに足を運ぶ。
未来などない、ほんの少しの夢の時間。
それが、今は日常としてここにある。
「……なんだか、夢でも見てるみたいね」
「夢じゃありませんよ」
顔を上げれば、いつの間にか図太くイヴの向かいの席で足を組み腰掛けるレボルトが視界に飛び込んできた。
カップに紅茶を注ぐレボルトは、意外にもしっかりとした手つきだった。
しばらく黙ってレボルトの所作を見守る。ずっと木の上で暮らしていたであろうレボルトは、一体いつどこでこんなものを覚えたというのだろうか。
というか、自分で下僕だと言っておきながら主人と一緒の席に座るというのはどうなのだろうか。
「……下僕だって言うなら、普通は主人が食事をし終えるまで立っているものじゃないの?」
「嫌ですよ。なんでわざわざそんなこと」
「まあ、そうよね」
レボルトなら、そう言うと思った。
イヴとて、一応一般論を言ってみただけで本気でレボルトにそこまで従者として振舞ってほしいわけじゃない。
初めてレボルトに名前を付けた時、イヴは彼と本気で友人となることを望んだ。対等であることを求めた。今だって、本気でレボルトに従者になってほしいとは思わない。
「そういう振る舞いをお望みなんですか?」
「ううん。全然。私は、今のままのめんどくさいレボルトがいい」
「めんどくさいとは、相変わらず可愛くないことを言ってくれる。……ああ、紅茶は砂糖ひとつでしたよね」
黙って頷こうとして、差し出された紅茶を前に動きを止める。
朝の紅茶には砂糖をひとつ。楽園でも地上でも変わらない、イヴの紅茶の飲み方だ。
ただ、レボルトの前で飲んだ記憶はない。
「……なんで知ってるの?」
「イヴ様も御存じでしょう? 伊達に、あなたのストーカーをしていたわけじゃありませんよ」
昨晩のストーカー発言を肯定した男は、イヴの責めるような眼差しにさらされても堂々としたものだ。
自分のカップにも紅茶を注ぎ、レボルトはふんぞり返った状態でカップに口をつける。
これで自分は下僕だと言い切ってみせるのだから、おかしな話である。
(まあ、レボルトがこうなのはいつも通りだけど)
思えば、レボルトが何か口にしている場面を見たのは初めてかもしれなかった。
「……ねえ、レボルト」
呼びかければ、目線がこちらへと向けられる。
「ここは、一体――」
「食事のあとで、イヴ様を案内したい場所があるんです」
イヴの言葉を遮り、レボルトはカップを静かにテーブルへと戻す。
「構いませんか?」
にっこりと頬杖をつき有無を言わせぬ口調で尋ねるレボルトに、イヴはぎこちなく首を縦に振ることしかできなかった。
食事が終わるころには、完治とまではいかなかったがイヴの腰も少しずつではあるが元の調子を取り戻しつつあった。
元気に歩き回ることはまだ辛いが、立てないほどではない。
食後、そのままの格好では辛いだろうと、レボルトに促されるまま先ほど眠っていた部屋に戻され、服を着替えた。備え付けのクローゼットを開けば、いくつか見覚えのある服がイヴの目に飛び込んできた。
楽園にいた頃に身につけていたものと、どれもよく似ている。
この場所は楽園に暮らしていた時住んでいた屋敷ではない。
ここがどこなのかは分からないが、それだけは明言できた。
決して小さすぎるというわけではないが、応接間などもあったあの屋敷よりもこの家は小さく、少しばかり庶民的だ。屋敷というよりは、避暑地にある別荘という表現の方が的確な、どこか素朴な雰囲気を漂わせる小さな家。
クローゼットに収められていた一着、水色の質素なワンピースに袖を通せば、気になっていた情事の痕跡は綺麗に布の下へと収められることになった。
これで安心して過ごせると、イヴはほっと胸を撫で下ろす。
イヴが着替える終えるとほぼ同時に、部屋の扉をノックする音が響き渡った。
「ど、どうぞ」
挙動不審になりながら、静かに開かれていく扉の先を見据える。
イヴの姿を見たレボルトは小さく目を見開いた後で、静かに感嘆のため息を漏らしていた。
「では、行きましょうか」
「ねえ、行くってど……っ! 待って! 大丈夫! 一人で歩けるから!」
「俺がこうしたいんですよ。いいから、黙ってされるがままになっていてください」
イヴの些細な抵抗をたやすく抑え、再び抱え上げたレボルトはこれ以上ないほどの上機嫌に階段を降り、イヴを抱いたまま外へとつながる扉を開く。
扉の先に広がる光景に、イヴは息を呑んだ。
それは、あまりにも見慣れた景色だった。
イヴの脳裏に焼き付いて離れない、愚かな裏切りの記憶。
純白の部屋の窓から見えた景色。あなたになら見られてもいいと、暗に示された思い出の地。
子供っぽい恋心にすがっていた場所。イヴに許されていたたったひとつの自由。苦しくて、辛くて、好きになってくれなくてもいいと言いながら、微かな希望を抱き、絶望し、怒り、それでも訪れ続けた思い出の地。レボルトと初めて出会った知恵の木のそびえ立つ丘と瓜二つのそれが、レボルトにしがみつくイヴの視界の先にはあった。
耳をすませば、微かな鳥の囁きと小川のせせらぎが聞こえて来る。
花は揺れ、雲は流れ、暖かな春の日差しが世界を照らし出していた。
「……こ、れは」
「よく出来ているでしょう?」
腕の中で硬直するイヴの背をあやしながら、レボルトはゆっくりと歩みを進めていく。
草むらを踏みしめるたび、ざくざくという静かな音がイヴの鼓膜を揺らした。
「ここは、楽園――」
「では、ありませんよ」
その言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。
楽園ではないのだと分かった瞬間、自分でもおかしくなるほど緊張がほぐれていくのが分かった。
「ここはあの場所を再現しただけの箱庭です。果てがないように見えてもそう見せているだけで、実際は狭いものです」
丘を登り、レボルトは木の下にイヴを下ろした。
立ち尽くすイヴを尻目に自分は木の幹に背を預け、足を投げ出し、いつものように悠然と微笑んでみせる。
「イヴ様」
片腕を伸ばしイヴを誘うその情景に、イヴは無性に泣きたくなった。
この場所がどこなのか、イヴにとってはそんなものは瑣末な問題だった。
どうでもいいのだ。
この場所には、失われたはずの全てがある。叶うはずのなかった夢物語。
永久に時を止めてしまいたいと願ったあの日あの瞬間が、確かにここにはあるのだ。
偽物だって、檻だって、幻だって、それこそ地獄だって、なんでもいい。
「さあ、手を」
レボルトが一体何なのか。自分が今どういう状況にあるのか。
全てが、頭から消し飛んでいく。
「おいで」
このまま地獄の奥底へと引きずり込まれるのだとしても、構わなかった。
手を重ねると同時に、イヴの体はバランスを失い、呆気なく倒れこむ。
だが、その身が地下深く闇の底へと落ちていくことはなかった。
代わりに体に触れるのは、柔らかな草の絨毯。木に幹に背を預け、レボルトの隣に腰掛けさせられる。
肩越しに伝わる熱に、目頭が熱くなった。
「夢、じゃないのよね」
「何度も言っているでしょう。物覚えの悪い人ですね」
「……悪かったわね」
ふいとレボルトから視線を逸らし、おもむろに丘から見える景色を眺めてみる。
ここは、間違いなく知恵の木のあったあの丘だ。
ただ一つ違うのは、イヴが婚約者と暮らしていた屋敷があったはずの場所に、先ほど二人がいた小さな家が建っている。横から伝わってくる熱は暖かく、肌を撫でる風の感触も記憶と寸分違わない。
ぼうっと、しばし懐かしくも新しい風景を瞳に刻み付けるように眺めてみる。
と、不意にレボルトが身体を起こした。
どうしたの? と声を掛けようとして、次の瞬間ももの上に訪れた重みにたまらず叫び声を上げそうになる。隣にいたはずのレボルトの頭が、眼下の、それも太ももの上にある。
これは所謂、膝枕というやつではないのだろうか。どう反応すべきか、人の気も知らず気持ちよさそうに目を閉じるレボルトの顔をじっと見下ろしながら、イヴはそわそわと落ち着きなく腕を彷徨わせた。
「言いたいことがあるなら、はっきり言っていただけませんか」
「言いたい事だらけよ!」
「そうですか。では、順番にどうぞ」
「そういうことじゃなくて。……どういう心境の変化?」
「心境の変化も何も、もう我慢する必要もないので、好きにやらせてもらおうと思っただけです」
一体何をどう我慢していたというのだろうか。
我慢も何も、むしろ振り回されていたのはこちらの方だったような気しかしないのだが。
「……我慢、してたんだ」
「そうですよ」
大人しくイヴに頭を撫でられているレボルトは、黙っていれば本当に小綺麗な顔をしている。
だが、一度口を開けば吐き出されるのは毒の籠った言葉だけ。
こうして大人しくされるがままになっていれば、それこそ愛玩用の人形のように映るというのに。
だが、そんな男だからこそ、イヴは心を奪われた。悪魔などと呼ばれている、得体の知れない黄金の怪物に。
「……疲れました」
「あっそう」
心底どうでもいい、といった調子で言葉を返す。
だが、髪を梳く指は止めない。
ここまで大人しくされるがままになっているレボルトというのは、新鮮で見ていて面白かった。
「あなたがもっと早く折れてくだされば、無駄に体力を使うこともなかったというのに」
「何よ、それ。……頑なに私を拒んでたのは、レボルトの方じゃない」
「イヴ様こそ。……俺を好きだと言いながら、諦めていたでしょう?」
容赦なく見上げてくる金色の目に、髪を撫でる指が自然と止まった。
「あの時は」
「――あなたは責任感と俺とを天秤にかけて、俺を捨てることにした。後悔はしても、躊躇いはなかった。だって、王の娘であるあなたにはそうする義務と責任があったから。……ねぇ、イヴ様? 俺を弄んだのは、あなたの方だ」
イヴのももの上に頭を預けたまま、レボルトは腕を上げた。
イヴの頬に指を滑らせ、残酷に笑う。
「でも、今は違う。あなたは俺を選んだ。俺の手を、取ってくださった。――なので、少し妥協することにしたんです」
「だ、きょう」
息が詰まる。見下ろしているのはこちらだというのに、気を抜けば喉元を食い破られてしまいそうな凶暴さが、眼下の男にはあった。
「俺以外のすべてを忘れさせて、ずぶずぶに身も心も溶かして、俺がいないと生きていけない身体にしてやろうと思っていました。でも、あなたは忘れたくないという。正直、今も不服なんですが、……全部覚えた上で俺を選ぶというのなら、まあいいか、と思いまして」
なんでもないことのように語るレボルトに、ぞっとした。
「あ、なた、わたしの、下僕なんじゃなかったの?」
「そうですよ。実際、名前に縛られている限り、俺はイヴ様には逆らえませんし。……現に、イヴ様は五体満足でしょう?」
まるで、主従の関係さえなければとっくに四肢を捥いでいる、とでも言うように。
イヴの怯えを知ってかしらずか、レボルトは穏やかに笑う。
「ねえ、イヴ様。……偉いと思いませんか?」
気が付けば、ぐるりと視界が反転していた。
この光景には、見覚えがあった。
初めてレボルトと出会ったあの日、あの時あの瞬間。
私の勝ちだと馬乗りになる小娘を、レボルトは地面に引きずり倒した。
その時と、同じ視界だった。
「俺はイヴ様の忠実な下僕です。……そうでしょう?」
レボルト越しに知恵の木と、作り物の青空が写り込む。
「よく出来ている」と自慢げに言っていたのだから、この場所を作ったのは確かに紛れもなくレボルトなのだろう。そうなれば、余計にレボルトが何なのか分からなくなる。
狡猾な蛇の化身、知恵の木の悪魔。
そんな風に呼ばれていたのには性格だけでなく、もっとイヴには想像もつかないような深い理由があったのではないだろうか。考えれば考えるほど、恐ろしくなってくる。
本当に、自分はとんでもないものに触れてしまっただと、ここまできて初めて、レボルトが恐れられていたわけが分かったような気がした。
「そうね」
――でも、私はバカだから。
レボルトの正体なんて、どうでもいい。
レボルトはレボルトで、イヴだけのものだ。
もう誰にも、邪魔なんてさせない。
この人と一緒に居られるのなら、他のものなんて全部どうだっていいのだ。
執着されて、嬉しい。凶悪なまでの愛情を向けられることだけで、多幸感でおかしくなりそうになる。
そう思えてしまっている時点で、私も大概おかしくなっている。
だが、別に構わない。今この瞬間、私は間違いなく幸せなのだから。
肯定を示し、褒美を待つ獣の頭を撫でてやる。
壊れろというのなら壊れるし、墜ちろというのなら、どこまでも堕ちてやろう。
(それが、あなたの望みなら)
どこまでだって、おかしくなれる。
「ねえ、レボルト」
声をかければ、ゆっくりと黄金色の目が見開かれていく。
「私のこと、好きになった?」
吐き出すのは、お決まりの台詞。
先ほど自分がされていたように、イヴは覆いかぶさっているレボルトの頬を撫でた。
「――言ったでしょう。蛇は、嘘吐きなんです」
返されたのは、耳にタコができるほど聞かされたいつもの答えではなかった。
どういう意味かと尋ねようとして、レボルトは開きかけたイヴの唇を塞ぐ。
触れるだけの軽い口付けは、あっさりとイヴを解放した。
物足りなさを感じイヴが頭上を見上げれば、悪魔は蠱惑的に笑う。
「でも、そうですね。……いつか気が向いたら、その時は――」
「……いつか、聞かせてね」
レボルトの言葉を遮るようにして、今度はイヴの方から触れるだけの口付けを与える。
レボルトの首に手を回し、引き寄せ、笑う。
その言葉をレボルトから引き出せただけでも十分な気がした。
いつか、聞ければいいと思う。
肝心な言葉は、結局何も言ってくれない。
けれど、イヴはその言葉だけで満足だった。
注ぐ日差しはひたすらに優しく、イヴの上に黒い影を落とす。
金色の目をした、巨大な怪物の影を。
――人はそれを、「呪い」というのかもしれない。
――悪魔と忌むかもしれない、哀れだと嘆くかもしれない、歪んでいると蔑むかもしれない。
――でも、だから、どうしたというのだろうか?
「イヴ様」
愛しい人が、縋るように名を呼んでいる。
それだけで、イヴは十分に幸せなのだから。
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